朝、カレンダーを見て今日が7月31日だと確認して。
俯かなかったのは、たぶん、あの年以来初めてだったと思う。
「ミッチーじゃねえか!」
いつも通りのはずの放課後がそうでなくなったのは、花道のでけぇ声が少しばかり懐かしい人の名前を呼んだからだ。汗を拭っていたタオルから顔を上げると、学生服ともこの体育館とも別れを告げて久しい三井さんがそこに立っていた。
「よお宮城!」
飛びかからん勢いで走り寄る花道と、フラフラと吸い寄せられるように近づいた流川の、ガタイの良い2年生コンビの間から俺と目が合った三井さんは、軽く手を挙げて笑った。
三井さんが卒業して3か月と少し。
感動の再会というような期間でもないしそんな間柄でもないけれど、豪快に口を開けた笑顔が俺たちの知っている三井さんのまんまで、なんだか懐かしくて気づけば俺も3人の元へ向かっていた。
「相変わらず鬼キャプやってっかー?」
「うるさいすよ。暇なんすか大学生は」
「あ、お前そんな口きいていいのか?」
どこか得意げな顔をして三井さんは背中に回していた手を前に持ってくる。その手には白いビニール袋が握られていて、ガサリという音と共に結ばれていた口を開くと、中には色とりどりのアイスのパッケージがぎっしりと入っていた。
「差し入れ持ってきてやったんだよ」
「おー! ミッチー気が利くではないか!」
「あざす」
間髪入れずに手を伸ばした花道と流川から、さすがの瞬発力というべき速さで袋を引き離し、「待て!」と、まるで大型犬をしつけるかのように鋭く言った三井さんはその袋を俺に差し出した。
「ほれ、選べ」
ぽかんと口を開ける俺に、さらにずい、と袋を押し付ける。
「ぐぬぬ、年功序列というやつか」
言いつけ通り「待て」を実行中の花道の言葉に、
「あ?」
と三井さんが眉をひそめた。
「ちげーよ。今日誕生日だろ、宮城」
「はっ?」
俺の素っ頓狂な声が体育館に響いた。
「あれ、違ったか?」
「いや違ってない合ってる……ていうか、え、なんで知って――」
「去年言ってたろ」
自分の誕生日を誰かに言ったことはなかった。
だからそんなはずはない、と否定しようとして、けれどその言葉は喉の奥で行き場を失った。
バスケばかりしていた記憶の隙間。去年の今頃、三井さんとたしかに話をしたことを思い出した。
翌日のインターハイ出発に備えて、その日は練習が早く終わった。どうせだからラーメンでも食いに行かね、という三井さんの誘いを断ったのが発端だった。
三井さんはたぶん、インターハイを前に緊張してたから誰かと一緒にいたかったんだと思う。
断った俺になんでなんで、ってガキみたいに聞いてきたから、鬱陶しくなって「誕生日だから早く家に帰ります」って、これまた俺がガキみたいに馬鹿正直に返答をした。
「そりゃおめでとさん」
そう言った三井さんの声を背中に、俺は半ば乱暴に部室の扉を閉めた記憶がある。
――だから嫌なんだ、って、思ったことも思い出した。おめでとうって、何が。そう思った。
「……よく覚えてんね」
「俺ぁ記憶力いいんだよ。ほれ、主役は一番だ」
その記憶力、勉強に活かしたらどうですか。という憎まれ口は言わないでおいた。「主役」という言葉にむずがゆさを感じながらも差し出された袋を覗き込んで、自分の好きなシャーベット系のアイスを見つけたので、手を伸ばす。
「じゃあこれ……あざす」
溶ける前に早速パッケージの封を開ける俺を見ながら、三井さんは満足げに頷いた。
「おう、それ選ぶと思った」
「リョーちん誕生日なのか! めでたいな!」
「花道声でかい」
「おーいお前ら! 鬼キャプテンの誕生日だからアイス食えるぞ! 感謝しろい!」
「いやあんたが一番でけぇな!」
三井さんが叫んだせいで、離れたところで様子を伺っていた新入部員(ちなみに人数が4月当初から3分の1に減った)と、2,3年生たちがワラワラとこちらに群がった。
初めて顔を合わせる1年生たちにも気さくにアイスを振る舞う三井さんが「ほれほれ、感謝するなら今日が主役の鬼キャプテンにな」なんて言うもんだから、幼さの残る新入部員たちがチラチラと俺を見る。
視線にいたたまれなくなって一歩、輪から離れようとした俺は誰かにどん、とぶつかって逃げ場を失くした。
「知らなかったなあ」
「夏生まれっぽいわよね」
顔を上げた先で心なしか恨めしそうな顔をしたヤスと目が合って、いつの間にか職員室から戻ってきていたアヤちゃんにはベシッと肩を叩かれた。
――自分の誕生日を誰かに言ったことはなかった。おめでとうって、何が。そう思ってた。
「宮城、誕生日おめでとさん!」
ちゃっかり自分も残ったアイスを頬張りながら、太陽に負けないくらいの笑顔でそう言う三井さんの言葉を聞いても俺の心に影は差さなくて。
だからアイスを飲み込んだ口が自然と動いて紡いだのは、なんの混ざり気もない言葉だった。
「……ありがとーございます」
アイス食って痛くなるのって、眉間だっけ。じゃあ鼻の奥がツンとするこれはなんだろう。
ギュッと絞られたみたいに胸が痛いのに、ふつふつと湧き出る何かが零れてしまいそうで、Tシャツの上から手のひらで胸のあたりを擦った。
――ソーちゃん。
今はいない、同じ誕生日の兄の名前を呼ぶ。
7月31日に絶望しなくて、家族じゃない誰かの言葉を素直に受け取る自分がいる未来を想像したことも、望んだこともなかったのに。
ソーちゃんごめん。あの頃のソーちゃんから、だんだん遠ざかる俺を許して。
12歳だったあの頃のままの笑顔の兄が思い浮かぶ。ソーちゃん。俺、18歳になったよ。
「リョーちん」
「先輩」
「キャプテン」
「リョータ」
それぞれ好きなアイスを片手に、目を細めて、白い歯を見せた部員が“俺”を見る。
「誕生日おめでとう」
――ソーちゃん。俺のこれからを、どうかそこから見てて。
今年もきっと、家に帰ったらアンナがケーキを切って待ってる。食えないかもって言ったら、母ちゃんもアンナもびっくりするかな。
それでも、胸がいっぱいでしょうがなかった。
作:2023.7.31
