電話越し、見えずとも【洋三】

 明日、水戸と出かけることになった。俺たちはいわゆる“そういう”関係で、だから2人で出かけるというのはつまり、“そういうこと”だ。

「……何やってんだ俺は」

 風呂に入ったにも関わらず部屋着ではない、外を出歩く用の服を脱いでは着てまた別の服を脱いでは着てを繰り返す自分にため息をつく。傍らのベッドの上には、クローゼットから引っ張り出された洋服たちが乱雑に並んでいた。

 クラスの女子が、「デートの前日って服一生決まらなーい」と話していたのを思い出す。

 「部屋散らかるよねー」なんて隣の席の盛り上がりは居眠りのBGMにするにはやけに耳について、机に伏した俺は目を閉じて寝たふりをしながら、服なんてなんでもいーじゃねえかと思っていた。半年ほど前の話だ。

 今なら俺だってあの会話に「わかるわかる」と食い気味に乗っかれる気がする。なんならなんでもいーとか思ってごめんって謝れる。全然なんでも良くないことがよくわかった。

コーディネートを試すたびに、頭に浮かぶのは2つ年下の恋人。スッキリとした目元の端正な顔立ちと、年下のくせにいつも余裕ある立ち振る舞いの、かっこいい俺の彼氏。

 ――アイツに、ちょっとでも良いなって思ってもらいたい。

 恋人になってからそれなりの月日を過ごした俺たちだけど、俺の休みの都合だったりアイツのバイトの関係だったりで実は初デートはずっとお預け状態だった。一緒に居るのは学校にいるときばかりで、そうなると必然的にアイツに見せている俺はジャージ姿もしくは学ラン姿ばかりということになる。

 初めてのデート。初めて見せる私服。そりゃさすがの俺だって、ちょっと……いやだいぶ緊張するってもんだ。

 せめて好きな色くらい聞いておけば良かった。アイツの好みがまったくわからない。

 そもそも俺の手持ちはシンプルで動きやすいという点で選んだ似たり寄ったりなものだ。もしアイツが、柄物だったり派手な色合いの洋服が好きだったら既にとっくに詰んでいるわけで……

「だーっ! もうわっかんねぇよ……!」

 まさに、服一生決まらなーい、な気分だ。クローゼットに手をついて項垂れた。

 壁に掛けられた時計の秒針が動く音がやけに大きく聞こえる夜の自室。考え過ぎて目が回ってきた俺の脳内にふと、なんの話のついでだったか「三っちゃんはスタイルが良いからなんでも似合うよ」と言ってくれたいつかの徳男が現れた。

 まるでそこに一筋の光を見出したように――は完全に大げさだが、俺は顔を上げる。

 そうだそうだ。半ば開き直りのように頷く。もしアイツの好みと違ってたとしても、いやでも俺が着てるし、カッコよくねぇ? お前も好きになっちゃうだろ? そんなスタンスでいこう。わはは、解決だ。ありがとよ徳男。

 部活中でもないのに疲労から肩で息をしていた俺は、ふふふ、と傍から見れば不敵な笑みを浮かべてベッドに散らばった洋服をかき集める。

 選ばれたのはシンプルなTシャツとチノパン。一番無難だろと思ったけれど、少し考えてから、かつて「大人っぽいわね」と母親に言われたジャケットをそこに加えた自分の良いカッコしい具合に後頭部を掻いた。いや、でも最近肌寒いし。しかたねぇよな。

 ようやく着ていく服も――やや無理やりではあるが――決まって、選抜落ちした服たちをクローゼットにしまう。あばよ、お前らの出番はまたそのうちな。

 それからなんだっけ、何がいるっけ。
 部屋を見渡して――そうだ、鞄と財布。通学に使っているボストンバッグから財布を取り出して、中身を確認する。……足りるよな? 多くはない札を数えながら、さっきから心の声がやけに多いことに気づく。

 普段から「声もでけぇし独り言も多い」と苦言を呈す宮城にこの事実を報告したらあからさまに嫌な顔をされそうだ。しかし宮城よ、聞いて驚け。俺ぁ心ん中でもうるせぇらしいぞ。

 そしてその理由は自分が一番よくわかっていた。

 三井さん。一緒に帰っていたある日、流れた少しの沈黙の間に、滑り込ませるように水戸が俺を呼んだ。普段はミッチーと俺を呼ぶ水戸が、二人きりのときだけ口にしてくれる呼び方。何も特別な呼び方ではないのに、誰に呼ばれるより甘く俺の心に染み入る。

「今度の休み、どっか出かけようか」

 目を瞬かせる俺に、水戸は念を押すように俺をじっと見て「二人で」と付け足した。

「それって」

 口に出した声が上ずって、期待が丸見えで恥ずかしかった。

「うん、デート」

 デート。水戸の薄めの唇が紡いだ言葉を反芻して噛み砕いて飲み込む。夏はとうに過ぎていて、肌に触れる空気に暑さはなかったのに、飲み込んだ言葉が熱を持ってじわじわと内側から広がるようだった。それを誤魔化すように「いいけど」と口の中だけで返事をする俺に、水戸は優しく笑っていた。

 そんなデートを明日に控えた今、心の中でうるせぇくらい喋っていないと。
 しつこいくらい札を数えて指先を動かしていないと。

 手のひらで胸を押さえつけてみても、ゴシゴシと擦ってみてもなんの慰めにもならない程のあの熱が胸の奥で渦を巻くのだ。

 さすがに札を擦るのにも限界を感じて、財布を鞄に入れる。用意した洋服の近くにそれを置くといよいよ手持ち無沙汰になってしまう。

 ベッドに腰かけて時計を見上げるが、まだ寝るには早い時間だ。ゆっくりと長針がひとつ進むのを眺めながら、ついでに明日の集合時間と場所を頭の中で確認しつつ予定を組み立てる。

 何時に起きて、何時に家を出ればいい? 初めてのデートだから絶対に遅刻はしたくない。水戸、あいつ集合場所早く来てそうだよな。俺が先に待ってたいな。「待った?」「待ってない」みたいなやりとりしてみてぇな。水戸のことなら1時間でも2時間でも待てる気がする。……いやさすがに嘘。心配になるわ。

 きっとたぶん、バスケの試合に来る時とはまた違った服装で来るんだろうな。そういえば水戸はいつもシンプルな服装だった。なんだ、もしかして俺たち好み合うんじゃねぇの。もし、もし仮に柄物の見慣れない服装で来たとしたって、どんな人ごみでだって水戸のこと見つけられる気がする。「水戸」って、俺は確信を持って声をかけられる気がする。いやそもそも柄物だったら人混みの中でも目立つから当たり前か、わはは。

「……だぁから!」

 明日の用意が終わった途端、これだ。

 うるせーすよ三井さん、と眉間にしわを寄せた宮城の声が聞こえた気がした。俺も本当にそう思うぜ。今回ばかりは生意気な後輩に完全同意だ。

 つるつると喋り出す心の声は、ぜーんぶ明日のこと。明日のこととはつまり、水戸のこと。

「っとに、」

 どうしてくれよう。意味がないと分かっていながら、心臓のあたりを手で擦る。

 水戸の顔を思い浮かべるたびにむずがゆくて焼けるようで、そしていつもより少しだけ鼓動が速くなる。

 否定の余地無し。こんなに頭の中も心の中もいっぱいいっぱいで、俺は今、ダサいくらい浮かれている。こんな気持ちを抱えたままベッドに潜ったって、絶対に寝られやしない。

 もう一度時計を確認して、少しだけ悩んで。それから立ち上がると、ハンガーにかけられた学ランの右ポケットをまさぐった。すぐに指先に薄い感触のそれが触れて、つまんで引っ張り出したのは、一枚の紙きれ。

 もし何かあったら連絡して。そう言って水戸が渡してくれた電話番号だった。

 何かってなんだよ。年下の恋人の用意のよさは、万が一にも俺がデートの約束を反故にする可能性を含んでいるようで、それが面白くなくて、抵抗も無視して俺の家の電話番号をマジックでアイツの手に書いてやった。

 油性じゃんか! と年相応に頬を膨らませた水戸の顔。強い口調とは裏腹に、擦るというよりそっと撫でるように黒くなった手の甲に指を滑らせて、スッキリとしたあの目元を柔らかく細めた水戸の顔。

 ――声が聞きたい。

 胸の奥で渦巻く熱が溢れるのを止められず、俺は小さな紙を手にしたまま自室を出た。

・・・

 電話の置いてあるリビングの扉を開けると、仕事から帰ってきていた父親が夕食を終えたらしいところだった。おけーり、と声をかけて、洗い物をしている母親の背中に

「電話借りる」

と一言告げてから、電話機を本体ごと持ち上げる。「どうぞー」という鼻歌交じりの返事を聞きつつ、コードの伸びるギリギリを確認しながらリビングを出て階段に腰かけた。

「ええと……」

 10ケタの数字は、頑張ればすぐに覚えられるかもしれない。俺はサボってた分テストの点は悪いけど、記憶力はそう悪くない方だから。

 けれど手の中の小さな紙に書かれた、俺の書く文字より細いそれを一瞥してハイ終わりはもったいないような気がした。

 5と8の文字が分かりづらいアイツの字に「もっとちゃんと書けよな」と悪態をつきつつ、目で追いながらひとつひとつボタンを押す。最後のひと桁は一瞬息を止めて、それからええいままよと勢いに任せたのは内緒だ。

 プルルル、と耳に当てた受話器から呼び出し音が聞こえてから、そういえば一番最初になんて口にするか何も考えていないことに気づく。もしかして親が出るかもしれない、うわどうしよう、と自分の向こう見ずさを後悔している間に、頭の中がまとまらないまま3回目の呼び出し音が途切れた。

「はい、水戸です」

「あっ……と、三井、ですけど」

 受話器の向こうから聞こえた声はふだん隣で聞くよりいくらか硬かったけれど、聞き馴染みのある声だった。水戸本人が出たのだと認識しながら、頭は混乱と緊張のままだったので、対水戸の親用に慌てて準備した、とってつけたような敬語が口から滑り出た。

 電話をかけてきたのが俺と分かってか、それとも俺の緊張が伝わってしまったのか、電話越しに水戸が息を漏らした音が聞こえた。

「ふ、ヘタな余所行きだなぁ」

「うるせ」

 いきなり電話をしたのはこっちなのだからもっと驚いてくれたっていいのに。この年下の恋人ときたらどこまでも余裕で俺をからかいさえするんだから本当にたいした奴だ。

「どうしたのさこんな時間に」

「……えーと」

 こちとら自分から電話をかけておきながら、お前の声があんまりにも近くて、鼓膜を直接揺らされてるみたいで、頭真っ白だよ。

 そもそも話題なんて何も用意しちゃいない。

だって電話をかけた理由はひとつだけだ。

「……明日、」

 開いた口を一度閉じて、耳から受話器をそっと離す。コードの太さ分、数ミリ開いたリビングの扉。そこから漏れ聞こえるのは洗い物の音とテレビでやってるバラエティの音声。それから両親の話し声。時折笑い声が聞こえるけれど、どんなことを話しているか内容まで聞き取ることはできなかった。

 だからたぶん、逆もしかりだろう。そう思いたい。

 三井さん? と、訪れた沈黙に橋をかけるように、水戸が俺を呼ぶ声が少し遠くに聞こえた。受話器を持ち直して、できる限り口元を寄せてから俺は口を開いた。

「明日のこと考えてたら、お前の声聞きたくなった」

 沈黙。その長さは自分で自分の言葉を反芻するには十分すぎた。

 それでも電話の向こうから何も聞こえない時間が続くとそれはもう沈黙を通り越して静寂で、だから思ったより早口になってしまったダサさとか、いかに甘ったるい言葉を吐いたかとか、そうやって客観的に自分を見られる冷静さまで取り戻してしまう。

「……おい水戸」

 水戸みたいに、優しく静寂を破れない。耐え切れなくて水戸を呼ぶ俺の声は年下の恋人に比べてずいぶんと余裕がなくて、それが格好悪くて、立てた膝に額をこすりつけた。

「あ、ごめん。いやー……ははっ」

「何笑ってんだてめぇおい」

 水戸の零した笑い声はずいぶんと軽くて、それがそのまま明日に対する俺と水戸の期待値の差なんじゃないかと思えた。それを悔しいと思う自分の気持ちを隠すように声が低くなる俺に、水戸は「口悪いなあ」と喉の奥で笑う音を隠さないまま続けた。

「三井さんがかわいーこと言うからさあ」

「バッ……!」

 バカヤロウ、といよいよ大声が出そうになり、慌てて自分の口を塞ぐ。

 水戸は自分よりデカくて2歳上の俺に躊躇なく「かわいい」と言う。

 ミッチーから呼び方が変わったときも、帰り道に初めて手を繋いだときも。俺が首筋に熱を覚えて心臓の音が聞こえないように必死で、唇をとがらせるとき。そういうとき、たいてい水戸は「かわいいね」と言う。

 俺だって男なんだからかわいいって言われて胸をときめかせるようなことはないけど、そう口にするときの水戸はなんだか傍目から見ても嬉しそうだから、ずっと邪険にできずにいる。

「おまっ……おまえ、近くに親いねぇの」

 まさか言いたいようにさせた結果、電話越し、鼓膜を直接揺さぶられる距離でその言葉を聞くことになるとは思っていなかったが。

慌てる俺とは対照的に水戸から「親ぁ?」とのんびりした口調が返ってくる。

「仕事遅いからいねーよ。……あ、三井さんとこはいるのか」

 そっか。返事をするより先に、水戸が一人納得したように呟く。

「もう電話切らないとまずい?」

 唐突に俺の親に配慮するような質問に面食らうが、少し考えてから階段を尻で滑るように一段降りて、そっとリビングの中を伺う。洗い物は終わったようだが、両親はテーブルを囲んで和やかに何かを話している雰囲気を感じられた。

「いや、もう少しくらい平気」

「そう。……三井さんあのさ、」

「なんだよ」

 少しの間のあと口を開いた水戸の声音には少しまじめな空気が含まれていて、あれ、もしかして親がいるときは電話禁止とか言われちゃう? そんな不安が一瞬頭をよぎる。そのせいでこちらの返事も短く、鋭くなる。

「俺も明日のこと考えてたよ」

 けれど耳に届いたのは予想外な言葉で、「えっ」という素っ頓狂な声と一緒に、俺の頭で渦巻いていたあれやそれやが飛んでいった。

「お、お前があ?」

「そうだよ。あのね、俺この時間の電話滅多に出ねぇの、面倒くさいからさ。でも今日は――うん。三井さんからだったらいいなって思って出た。わかる? 俺もたいがい浮かれてるよ」

 突然饒舌になった水戸の言うことを、ひとつひとつ、取りこぼさないように受話器を耳に押し当てる。今、水戸も浮かれてるって言った?

「三井さん」

 驚いて言葉が出ない俺が作ってしまう沈黙に、水戸が俺を呼ぶ優しい音が広がる。今度は俺を促すわけではなくて、聞いて、と言っているような。

 初めて名前を呼んでくれたとき、初めて手をつないだとき、そして明日のデートに誘ってくれたあのとき。
 水戸が普段よりずっと柔らかく、ほんの少し甘えるように俺を呼ぶと、決まってそのあと俺に嬉しいことが起きるんだ。

「楽しみだね、明日」

 浮かれていた。明日のことを考えて、水戸の顔を思い浮かべるたびに胸の奥はむずがゆくて焼けるようで、心臓の鼓動は少し速くなった。

 お前の声が聞きたかった。楽しみで沸きあがる熱を一人で抱え込めなくて、お前と分け合いたかった。

 ――俺はお前に、同じように明日を期待していてほしかった。

 だから、水戸から届いた言葉にくすぐったいような気持ちで口角が上がるのを抑えられないまま「おう」と返す。

「なんか意外。お前がそういうこと言うの」

「嬉しくない?」

「嬉しい」

 少しからかってやろうと思ったのに、まんまと胸の内を引き出されてしまう。食い気味に返事をしたあまりに単純すぎる自分自身に、しまった、と心の中で舌打ちをする。

「俺ね、三井さんの素直なとこ大好き」

「おっ、まえ……バカにしてんな」

 大声の出せない俺のできる限りの抗議――断じて照れ隠しではない――にせめて先ほどとは一転低い声を出すが、対する水戸は「あっはっは! してないよ」と一ミリも臆することなく笑っている。

 いきなり饒舌になったり、なにひとつ声を潜める様子もなくこちらを赤面させるようなことを言ってのけたり。膝をたたんで背中を少し丸めた俺は、電話をかけた理由もお前にしか届かないように気を遣ったというのに。

親がいないというだけで、電話の向こうはずいぶんと伸び伸びとして楽しそうだ。

笑いの余韻を微かに残しながら「意外って言うけどさぁ」と、水戸はさらに続ける。

「もらったのと同じもん返したくなっただけだよ」

 そしてそんなことを呟いた。

「もらった……?」

「わかんねーかなぁ。電話くれてありがとうってこと」

 どういうことだ? 見えない相手に首を傾げる。俺は水戸が楽しみって言ってくれたのが嬉しくて。でもそれは水戸からしたら俺に返すもんで?

 はてなマークを浮かべる俺の思考をぶった切るように、「親さん大丈夫?」と唐突に話題が切り替わる。それを見計らったようなタイミングでリビングの方から椅子を引く音が聞こえて、漏れる明かりの中で影が動くのが分かった。

 どれくらい話してたかは分からないが、電話代も考えればそろそろ潮時だろう。

「水戸、明日遅刻すんなよ」

 俺がそう言えば水戸も通話の終わりを察したようで、「まかせてよ」と短い返事が返ってきた。

「じゃあ……おやすみ」

「うん。おやすみ三井さん」

 また明日。声が重なる。それにお互い小さく笑って、少しの名残惜しさを感じながらそっと受話器を置いた。

 はーっと、長く長く息をひとつ吐いて、それから立ち上がってリビングの扉を開ける。

「電話返す」と元あった場所に電話機を戻してさっさとリビングを出ようとする俺の背中に、「寝るのか?」と父親が声をかけた。

 本当は早々にこの場を退散しようとしていることを汲み取ってほしかったが、たぶん、このあたりが俺の父親なんだと思う。しかたなく両親に顔が見えないように背を向けたまま「ん」と短く返事をすれば「おやすみ」と両親が綺麗にハモるので、口の中で俺も同じ言葉を返して、扉を閉めた。

 グレてた頃より恋人との電話を終えた後の方が親の顔が見づらいとか、聞いてねぇんだけど?

 部屋に戻って脱力感と共にあおむけにベッドに倒れ込む。ぎし、と184cmの身体を受け止めてスプリングが軋んだ。

 手の中にあるのは階段の途中で拾い上げた、この時間の俺と水戸とを繋いでくれた小さくて、でも大事な紙切れ。

 目の前にかざして眺めていると、あの柔らかい声に再び耳をくすぐられるようだった。

 「明日、楽しみだね」。
 そう言った水戸がどんな表情をしていたのか残念ながら電話越しには分からなかったけれど、きっと目元をそっと細めていただろう。

 俺はアイツのあの表情が何より好きだから、そうだといい。

 今、この夜を水戸が俺と同じ気持ちでいてくれる。そう思うと胸の中のあの激しい熱は落ち着いて、代わりにじんわりとした温もりが広がった。

 “安心”。そんな単語が頭に浮かんで、その心地良さに俺の思考は急に鈍った。

 明日、やっぱり早めに集合場所に行こう。溶けそうな意識の中で、俺は決意する。遅刻なんてもってのほかだ。だって1分でも1秒でも早く、水戸に会いたい。

 腕を下ろす。腹の上に置かれた手の中で、紙切れがカサリと小さな音を立てた。

 ――おやすみ水戸。また明日。

 最後に重なった甘い甘いあの声を思い出しながら、俺は意識を手放した。

 

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