「さて本日は中秋の名月です。夜空の様子はどうでしょうか」
かしこまったニュースを読み上げていたアナウンサーが口調を和らげると、テレビ画面が東京のどこかの空を映した。
四角く区切られた黒い画面の真ん中に、丸い月が浮かんでいる。「雲が少なく綺麗に見えますね。今年は満月だそうです」と続くアナウンサーの声に、隣から「ほー」と感心したような声が聞こえた。
コトリ、とコーヒーの入ったマグカップがローテーブルに置かれ、並んで腰かけていたソファから立ち上がった三井さんが「どれどれ」なんて言いながらベランダへ向かっていった。
俺はその背中を視界の端で見送りながら、引き続き手の中のマグカップに口をつける。視線は目の前のテレビに、しかしニュース番組が終わって突如始まったバラエティ番組の賑やかな笑い声は、どこか遠くに聞こえた。俺の耳は違う声を待っている。
「おーい水戸ぉ! 満月見えるぞ!」
きた。待ち望んだ声に口元を緩めて、三井さんのマグカップの隣に自分のそれを置く。
「ほんとにー?」なんてのんびりと返し、ベランダに降りる頃には澄ました顔に戻して三井さんと肩を並べた。「ほら」と指さされた空を見上げる。
「わ、ほんとだ」
夜空に浮かぶ月は、さきほどテレビの中で見たそれより近く、そして煌々と明るい。
「綺麗だね」
世間の雑踏なんてものともせず、高い位置でただ静かに暗闇を照らすそれに俺の口から自然とそんな言葉が零れた。それなりにヤンチャな日々を過ごしていた中学時代の俺が聞いたら、目を丸くするんだろうな。
三井さんの瞳に映る世界は、俺よりもずっとずっと色が溢れているのだと、付き合ってから知った。
春は眠くて夏は暑く秋は中途半端で冬は寒い。そうやって1年を過ごしてきた俺に、春は色とりどりの花が咲くことを、夏の日差しで海が煌めくことを、秋の夕焼けが燃えるような朱色なことを、冬の足跡ひとつない雪原に心が躍ることを、教えてくれたのは三井さんだ。
俺よりいくらか大きな瞳で世界のどこかを切り取っては、「きれーだな」なんて素直に口にする。
そしてそのたびに「水戸」と、俺の名前を呼んでは綺麗な世界をおすそ分けしてくれる三井さんの声が大好きだった。
夜にはずいぶんと肌寒さを感じる秋の空気を言い訳に、一歩、三井さんに近づくと何かもの言いたげに俺の顔を見つめる視線を感じた。
「……なに?」
「おまえ知ってる? 月が綺麗ですね、って口説き文句なんだってよ」
「え、知らない。どういうこと?」
さっきの俺の言葉のことだろうか。まったくそんなつもりはなかったと目を瞬かせる俺に、三井さんはえーと、と何か思い出すように顎に手を当てた。
「なんだっけ、ナツメソーセキだっけか。“I love you.”をそうやって訳したとかなんとかって話」
「へー、そりゃまたロマンチックだね」
俺が肩を揺らして笑ったのに、この話題を切り出した張本人の三井さんは同じようには笑ってくれなかった。ふいと俺から視線を逸らしてまた月を見上げる。むにむに、唇が何かを言いたげに動いて、それから――
「だから他所で迂闊に言うなよ」
勘違いされたら、困るし。
最後はほぼ口の中だけでそう呟いたきり口を噤んでしまった恋人の端正な横顔を呆然と見つめる。頑なに平気な顔をしているが、月明りの下、徐々に首元が赤くなっていくのが見えた。
かわいい、という感情もこの人と付き合うようになって覚えた。
「……なんか言えよ」
ついに耐えかねたのか、じろりと睨みつけるようにこちらを向いた瞳は少し色が薄く、光を受けて黄金色にも見える。まるでそう。
「三井さんの瞳は、月を溶かしたみたいだね」
「あ?」
そっと手を伸ばして自分よりやや高い位置にある後頭部を掴む。力を入れて少し下を向かせれば三井さんは何事かと慌てた素振りを見せた。けれどまっすぐ、今日の月のように丸い瞳を見据えてやれば大人しく射抜かれてくれる。
抵抗するように硬かった首の力が抜けるのに気を良くして、さらに顔を近づけて。
「綺麗ですね」
息のかかる距離、そう言えば「ひえ……」と返ってきた情けない声がロマンチックとは程遠くて笑ってしまう。
「アンタの前でしかこの言葉使う気ないから、安心して」
俺がこの世界を綺麗だと思うのは、アンタの隣にいるときだけだから。覚えておいてね。
重ねた唇から、砂糖とミルクをたっぷり入れた三井さんの、とびきり甘いコーヒーの味がした。
