水戸洋平は意外とよく笑う。
バスケット部に喧嘩を売って返り討ちにあってからしばらく、謹慎明けの水戸たちを探し出して、申し訳ないと、それからありがとうと頭を下げたとき。屋上で車座になっていた水戸と他の3人はしばしの沈黙のあと、「うわははは!」と派手な笑い声をあげた。
「殴った相手に感謝されたのは初めてだな」
顔上げなよ、と予想外に穏やかな声音に導かれるように深々下げていた頭を上げると、胡坐をかいたまま頬杖をついていた水戸はゆるい笑みを湛えて俺を見上げていた。
「似合ってるよ、それ」
人差し指は俺に向く代わりに、しっかりとセットされた己のリーゼントを指さした。
もっと素っ気ない態度をとられると思っていたのに。
思いもよらない相手の態度にとっさに返す言葉も出ず、涼しくなった首元を掻くばかりの俺を見て、水戸はさらに眦を下げた。
「頑張りなよ」
くしゃりと笑うとはこういうことだろうか。目を細め、歯を見せてみせたその顔は、あの日俺を殴り飛ばした冷たい瞳を持った男と同一人物とは思えないそれだった。
「悪さしないように見ててやるからさ」
「もうしねえよ!」
冗談めかして付け足した水戸に今度こそとっさに言い返せば、「うはは」と声を上げる。
あっさりと俺を許した男はやけに大人びているようで、けれど大口を開けて笑う様が年相応で、俺はこのとき肩透かしともうひとつ、どうにも落ち着かない妙な気持ちを抱いたのだった。
それが初めて水戸の笑顔を見たときのこと。
当時こそ、珍しいものでも見たような気になったものだったが――そう、水戸洋平は意外とよく笑う。
桜木の見学と称してバスケ部にしょっちゅう軍団が顔を出していたから、当然水戸を見かける機会も多かった。
調子に乗った桜木のトンチキなプレーにゲラゲラと腹を抱えて笑う姿。あと一歩のプレーに悔しさを滲ませる桜木に苦笑いする姿。集中する桜木の背中をどこか誇らしげに、穏やかな笑みと共に見守る姿。
ちらりと盗み見していたその笑顔が、やがて自分にも向けられるようになった。蝉のうるさい頃だった。
パスッと軽やかな音を立てたシュートに「ナイッシュー」と声が飛んだ。振り向けば、水戸が定位置である体育館の扉にもたれながら口元に手を当てているのが見えた。目が合うと、一瞬驚いたような顔を見せたあと、いたずらのバレた子どものように笑ってみせた。
すぐにどやどやと、周りにいた3人も口々に「ナイッシュー!」と叫ぶ。心臓がやたらとうるさかったのは、ハードな練習のせいだけではなかったと思う。
正面から俺に向けられた笑顔は、あの屋上以来だと気づいた。
夏が終わって桜木の入院が決まれば、ああきっとアイツらは体育館に来なくなるんだろうなと思った。その頃にはもうすっかり、なんでもない話をできるような間柄になっていたもんだから、ちくりと胸が痛んだ。
なのに俺の予想はまたも外れて、連中は毎日とはいかずともいつの間にか当たり前のように体育館の扉付近を占領して、当たり前のようにバスケ部の見学をしていた。
なかでも、水戸はそれなりの頻度で1人で体育館にやって来た。
連中がいれば賑やかな話し声や部員のプレーに感嘆するような声が聞こえてくるのに、水戸は1人のときはただ静かに体育館を見つめていた。シュートを打とうとゴールに向き合った時、背中に水戸の視線を感じた。
どんな表情をして、何を思っているのか分からなくて、それを意識すると時折手元が狂った。
耐えかねて、ついにある日「お前よく来るな」と指摘してみれば、桜木がしょっちゅうバスケ部の話をせがんでくるのだと言う。ふうん。喉に何かがひっかかって、そう返すのが精いっぱいだった。
「今日さあ、バイトないんだよね」
流れた沈黙は、水戸ののんびりとした声に破られた。
「ミッチー、一緒に帰んない?」
驚く俺と対照的に水戸は微笑んだ。空をオレンジ色に染める夕陽が、水戸の丸みのある頬を照らす。妙に胸がくすぐったくて、俺は短く「ん」と返してひとつ頷いた。
初めて肩を並べて帰路についたその日。たしか最初は、お互い他愛もない話をしていたと思う。数学教師に目をつけられてウンザリしているだとか、購買の焼きそばパンはもっと仕入れた方がいいだとか。
けれどそのうちやっぱり話題はバスケ部へとうつって、必然、桜木の話になった。
水戸が言う。桜木が早くバスケをしたくて病室でうずうずしていること。病室で暇なときはいつもボールを触っていること。赤木妹の手紙といっしょに、軍団の口から聞くバスケ部の話を楽しみにしていること……。
「ホント、すっかりバスケの虜になっちまったみたいよ」
夏の頃よく見た、桜木の背中を見守るあの優しい顔でそう結んだ。
俺は足を止めた。数歩先に進んだ水戸が振り返って、黒い瞳が俺を見つめる。喉が痛いんじゃなくて、喉の奥がもっと締め付けられるように痛かった。
「俺が」
2人きりの静かな夜道は、俺の声の掠れも隠してはくれなかった。ぽいと放り出されたような心細さに、思わず下を向いた。そうして罪の告白をするかのように――むしろそのつもりで、俺は口を開いた。
「俺があんとき飛び込めてたら、桜木は怪我しなかっただろな」
震えそうになる息にのせて吐き出した言葉は、暗い路地の上に落っこちた。
言ってもしかたがないと分かりきっていたから、ずっとずっと言えないままだったこと。桜木が誰かを責めるような奴じゃないって、ごめんなんて言ったってしょーがないんだって。全部全部わかっていたから。わかっていたけど。
俺は白いベッドの上が退屈なことも、四角い窓の向こうがやけに遠いことも、ひとりぽっちの夜にどうしようもなく胸がざわつくことも知っている。
病室で過ごす桜木の背中を考えては、その度に奥歯を噛みしめた。
「ミッチー」
ざり、と靴底がアスファルトを擦る音がして、水戸がこちらに近づくのが分かった。
俯く俺を呼ぶ声は、いつかとおなじように穏やかなものだった。それでも顔は上げられなかった。
桜木を一生懸命応援していた水戸は、大切な親友の入院に何を思っているだろうか。
やっぱり奥歯を噛みしめたまんま返事ができない俺に、水戸は子どもに言って聞かせるかのように続けた。
「花道は頑丈だからさ、看護師さんに怒られるくらい元気いっぱいだよ。部活にも、戻れないかもなんて考えてないんだ。戻りたくってしかたねーから、戻ることしか考えてねえんだ」
また一歩、距離が近づく。
「花道は大丈夫だから。……ありがとな」
水戸はそう言って俺に腕を伸ばす。ゴツゴツとした手が、俺の左ひじのあたりをぽんぽんと叩いた。
ず、と耐え切れず鼻をすすった。その音に気づいた水戸が下から覗き込むのを避ける暇もないまま、ばっちりと目が合う。
「今度いっしょに見舞い行こうか。花道の元気ぶり見てやってよ」
うっすら滲んだ視界の先。街灯の明かりに照らされた水戸は、短い眉を下げて微笑んでいた。真っ暗な夜道で唯一明るくて、だから雫が零れる前に顔を上げることができた。
ありがとうと言ったって、水戸はなんてことない顔をするだけの気がした。でもせめて何か伝えたくて、下手くそな呼吸のまま口を開いたら「っ、行、く」というたった二文字の返事が嘘みたいにつっかえつっかえになってしまった。
水戸は口を開けて笑っていた。
・・・
「……ッチー、ミッチーってば」
肩を叩かれ、落ちていた瞼をゆっくりと上げた。まだ少しぼんやりとした頭を引きずりながら、声のした方へ顔を上げると、カウンターの向こう側で心配そうな顔をした水戸と目が合った。
「大丈夫? 具合悪い?」
そう問いかける水戸の声がやけにハッキリと耳に届くので、「だいじょうぶ、」と半ば舌足らずに返事をしながら、カウンターの一番隅の席からあたりを見回す。
記憶の限りではずいぶんと賑やかだったはずの店内は、気づけば俺の他に客が2組だけとなっており、そのうち1組は既にレジで会計をしている様子だった。どうやらいつの間にか閉店間際になっていたようだ。
「珍しく酒飲んだと思ったら寝ちゃってるからビックリしたわ」
眠っていたわけではない。微睡みに片足を突っ込んではいたが。
否定しようとしたものの、それより先に聞こえた
「アンタ、財布とか盗られないよーに気を付けなよ」
と言う、およそ2つ下とは思えない母親のような口ぶりで俺を諭すその声音が、夢うつつでなぞった記憶のあの声と重なって口を閉じた。
居酒屋の店員がおそろいでつけている紺色のバンダナを頭に巻いた水戸と再会したのは、半年ほど前のことだった。
たまたま、大学で同じくバスケットに精を出すチームメイトに連れられてやってきた店で、注文を取りにきたその声に、俺が弾かれたように顔を上げた先に水戸はいた。
名前を呼ぼうとして、いや待てよ、と咄嗟に頭の中でブレーキをかけた。チームメイトの注文を繰り返すその横顔が、俺の知っている水戸洋平よりもスッキリとした頬をしていることに気づいたせいだった。
高校を卒業してから2年が経っていた。
俺は水戸に気安く声をかけていいんだろうか。そもそも、覚えられていなかったら。
誰だっけなんて返ってきたら、俺は平気な顔をして笑えない自信があった。
逡巡する間も外せないままの視線を感じたのだろうか、書き込んでいた伝票から顔を上げた水戸の、あのつるんと黒い瞳がぶつかって――
「ふ」
その目が細められた。薄めの唇から白い歯が覗く。
「久しぶりだね、ミッチー」
あ、笑った顔は変わんねぇ。それにひどく安心して、それからあの頃と同じように名前を呼ばれて、「おー。久しぶり」と返した俺の頬は自分でも分かるほどに緩みきっていたはずだ。
「あの店員があんな風に笑うの初めて見たわ」
そう言うチームメイトに、高校時代の知り合いなのだと告げれば、「へー、知り合い」とどこか腑に落ちないように繰り返された。それを気がかりに感じたのは、俺が水戸との関係を表現する言葉をそれ以上に持ち合わせていないことをもどかしく思うせいだろうか。
尖らせた唇に気づかれないように、酒が来るより早く水の入ったグラスに口を付けた。
やがて上機嫌に酒を飲み進めたチームメイトが机に突っ伏して規則正しい寝息を立て始めた頃、水戸がひょっこりと現れた。
「わり、ちゃんと連れて帰るから」
「ああいいよ、まだ閉店まで時間あるし。ゆっくりしていきなよ」
そう口を動かしながら手際よく空になった皿を下げる様子を、慣れているなと眺めていると
「元気そうでよかった」
呟くような声。「お、俺もっ」と思わず身を乗り出したのは、聞き間違いなんかにするまいと思ってのことだった。
「アンタ、俺見てすげー顔してんだもん。お化けでも見たのかよって」
すっかり店員としての空気を取り払った水戸が言う。突然吹き出したのはそういうわけだったのか。よほど間抜け面を晒していたのだろうことが恥ずかしくて、乗り出したはずの身を早々に引いた。
「なあ。今もちゃんと頑張ってる?」
両腕を上げて、右手の甲を額より少し上に立て、その下で左手を空に添える。くいっ、と押し出すように右手首を曲げて、水戸はどこか得意げに口角を上げた。
冬の大会前、暇そうにしていた桜木軍団を引っぱり出して、パス出しをさせたことがあった。センスがありそうだ、と試しに水戸にシュートフォームを教えてやると、口ではぶーぶー言いながら大人しく俺の言うことを聞いていたっけ。
「よく覚えてんな」
「忘れるわけないでしょ」
「……そーかよ」
着ているものは大学の指定のジャージで、持っているのはパンパンに膨らんだドラムバッグで。水戸が分かって聞いているのなんて百も承知だったが、それでもとっておきとばかりに俺も口角を上げて答えた。
「春からレギュラーなった」
「えーっ! すげえね」
それからいくつか会話を交わす中で知り得たのは、水戸が知り合いに頼まれて昨年からこの店でバイトをしていること、バイトを入れているのは金曜日と土曜日の夜であること……。
また来てもいいか、と聞くと「律儀だね」と驚きながら「オマケはできねえよ?」と言うので「そんなもんいらねえ」と力強く返してやる。水戸はやっぱり笑った。
それから、さすがに毎週とはいかないが、月に1度は必ずこの店に立ち寄るようになった。
チームメイトといっしょのときもあるが、1人のときはカウンターの隅の席を定位置に、酒はそうそう飲めないので自分ではまず作ることのない小料理に舌鼓を打つ。
せかせかと働く水戸は、人が減った頃合に声をかけてくれる。お互い近況を報告し合うなかで、桜木と流川が率いるようになった湘北の試合日程を聞いて、こっそり観に行ったこともあった。
店に行くと決めた日、俺は部活終わりにシャワールームで普段より入念に汗を流したし、店の引き戸を開ける前には必ず2度深呼吸をしていたけれど、そんなこと水戸は知らなくてよかった。
水戸が「いらっしゃい」と笑ってくれて、「また来てね」とお釣りを返すあの一瞬、手が触れる。それだけでよかった。
――よかった。はずなのになあ。
「結局最後んなっちまった、悪い」
あれから、ちまちまとグラスに入った水を飲んで酔いを醒ましているうちに閉店の時間を迎えてしまった。残っていたはずの1組も俺より先に帰り、後片付けの音が響くだけの静かな店内で会計を終えた。
水戸が口にした、酒を飲んだせいでいつもより少し高めの金額を聞いて、財布を覗いて少し悩んで、ぴったりの額を渡した。
レシートは毎度断っているので、いつもであれば「じゃあ、また来てね」と送り出されるのだが、今日は違った。「少し待ってね」と俺を引き留めながら、水戸はレジにあるボールペンで何かを走り書いて、それから「そこまで送るよ」と言ったのだ。
「ミッチーみたいに悪酔いしない、ダル絡みしない、うめぇうめぇって飯食って帰ってくれる客は超貴重だから。こんなん迷惑でもなんでもねーよ」
言いながら厄介な客でも頭に浮かんだのだろうか、眉間に皺を寄せながらも苦笑した水戸は、ぴしゃりと後ろ手で店の引き戸を閉めた。
「酒がそう飲めねえだけだぜ」
「いーのいーの。でも、だからさ、今日は気をつけて帰りなよ」
見上げられて、その視線が思ったより近いことにドキリとする。いつものカウンター越しとも、椅子に座った目線とも違う、肩を並べた距離。2年の間に水戸の身長が伸びたのだと確信した。
たったそれだけ。なのに2年前より、そして再会したばかりの半年前より、もっと大人に近づいているように思う。それはきっと、水戸が自分とは違う世界に飛び込むことを聞いたせいだ。
今日、俺がいつもの定位置に座ると、まだ人がまばらの店内を見回しながら水戸は教えてくれた。
卒業をしたら、掛け持ちでバイトをしている自動車整備に関わる会社に就職をすることが決まったのだと。だから、居酒屋のバイトは3月でおしまいなのだと。
おめでとう。そう口は動いたけれどうまく笑えていたかはわからない。それがひどく嫌だった。
「あのよ」
春が来たらもう――また、お前に会えなくなるのかと思うとただ胸が痛かった。ぎゅう、と締め付けられるように痛かった。それがもう本当に、酒を飲まなきゃやってられないほどに嫌だった。
水戸が送ると言ったとき、少々嫌な予感がした。今日の俺があの黒い瞳と交わって、すんなり別れの挨拶を口にして、すんなり背を向けられるとは微塵も思っちゃいなかった。
だってあのときだって、お前に見つめられた俺は本音を零したろ。
すう、と吸った息が音を乗せて吐き出された。
「俺、お前が好き。高校んときから」
水戸が瞳どころか口まであんぐり開けて、わかりやすく驚きを伝える。珍しい顔だ。びっくりさせたろうな、気持ち悪がらせたろうか。
外灯にぶつかる虫の羽音、酔っ払いの声、車のクラクション……周りの全部の音が遠くなって、心臓だけがうるさくて苦しい。
今日、俺はずっと苦しい。
「水戸」
瞬きを繰り返している水戸に言う。
「笑ってくれよ」
ウソみたいだけど、本当の話。水戸の笑顔は魔法だった。
不安なとき、しんどいとき。いつだって俺の心をふわりと持ち上げてくれる。それが特別なことなのだと、2年前のあの夜に俺は知ってしまった。
終ぞ言えないままだった気持ち。淡い思い出にするつもりだった。それでも忘れられないまんま、うっかり再会してしまった。顔が見られるだけでいいなんて思いながら、それでも毎度律儀に、帰り際に触れる手に心臓は跳ねた。
大人ぶっただけのガキみたいな恋心だ。今日の胸の痛みが言った。潮時だと。
――だから水戸。笑って。
もう一度、心の中だけで懇願する。おまえが笑ってくれたら、きっと俺も俺のことをバカだよなあって笑えて、きっと心が軽くなる気がするから。だから。
「笑わないよ」
なのに水戸はそう言った。俺を見据えて、笑顔とは程遠い大真面目な顔をして。酔っ払いの妄言にでも聞こえたか。笑い話にもならないか。
言葉を失くして逃げるように俯く俺の腕を、水戸が引いた。
「ここで俺が笑ったら、アンタ泣くだろ」
「……泣かねえよ」
「俺の前ではって? あとで泣くなんてもっと許さねえからな」
言いながら、水戸がするりと空いた手で頭のバンダナを外したけれど、それを気にする余裕もない。
「なに、」
おめーは何を言ってるんだ。ハッキリとしない水戸との会話に苛立って、半ばヤケに顔を上げたとき――水戸の顔がすぐ近くにあった。自分の視界がおかしくなったのかと混乱するほどに、目の前が水戸でいっぱいだった。
周りの音がさっきよりずっと遠い。くわえて、うるさかった心臓の音もまるで他人事みたいに聞こえる。
唇に触れている柔らかくて熱い何かの感触だけが鮮明だった。
少ししてようやく口で呼吸ができたとき、俺から離れた水戸は自分の薄い唇をなぞるように触れた。ここだよ、と言ってるみたいで、ぶわりと身体中の熱が顔に集まるのがわかった。
「な……っ」
「俺も好きなんだよ、ミッチー。だから勝手に終わらせようとしないで」
今度はこちらが口をあんぐりと開ける番だったが、そんな俺を横目に水戸はこれ、とポケットから取り出した何かを俺の手に握らせた。
混乱したまま手の中の薄いそれに目を落とすと、この店の名前が記されたレシートで――裏に、10ケタの数字が並んでいる。
「俺の家の電話番号。今日渡すつもりだったのに、先越されちまった」
俺の告白の話だろうか。キスの方が何歩も先を行っているだろ。いろいろと言いたいことはあるけれど、水戸のここまでの言葉をひとつひとつ噛み砕いて、咀嚼して、ようやく飲み込んだ俺が口にすべきはそれよりもっと大事なことだ。
「……春過ぎても、お前に会っていいのか」
「いいよ。明日電話くれたっていいよ。……ミッチーに会いたくて、それ書いたんだから」
それ、と水戸が言うレシートに書かれた数字をなぞる。
「水戸、俺のこと好きなのか」
確かめようとした声が震えた。喉の奥が痛くて、ず、と鼻をすすると、ゴツゴツとした手がレシートを持つ俺の手に重なった。
10ケタの数字が急に読みづらくなった。
「うん、ずっと好きだった。ミッチー、」
呼ばれてつられるように顔を上げた先。滲んだ視界の向こう側で、すっきりとした頬を店のガラス戸から漏れ出た明かりに照らされて俺を見つめる水戸がいた。
「俺と付き合ってください」
まっすぐに俺を射抜く黒い瞳が、その気持ちが真剣であることを、そして寄せられて下がった短い眉が、緊張を伝えていた。キスまでしといて今更なんつー顔だと思った。お互い様か。
――水戸、笑ってくれよ。
息を吸って、吐いて、整えて。そうしたはずなのに、くそう。「っ、は、い」というたった二文字の返事があのときみたいにつっかえて、やっぱりカッコつきやしない。
下手くそな返事に、それでも水戸が眦を下げて
「うれしい」
そう言ってくしゃりと笑うから、心がふわりと浮き上がった勢いにまかせて、水戸をまるっと抱きしめた。
