ぺたぺた。ぺたぺたぺた。
俺が歩くたんび、裸足でフローリングに触れる足音がひとつ多くくっついてくる。それは俺がキッチンに入るまで続いて、冷蔵庫の前で立ち止まれば、同じようにぴたりとやんだ。
何も怖いことはない。足音の正体を知っている俺は、今日はそういう日か、とひとり納得した。
すっかり当たり前に、少し視線を上げて振り向いた先で、ぴったりくっついてきた足音の持ち主は口をへの字に曲げて立っていた。
「三井さんもなんか飲む?」
「んん」
固く結ばれたままの口から、低い声だけが返ってきた。
YESでもNOでもないその返事が、冷蔵庫に用時がないことをあからさまに告げていて思わず「ふはっ」と吹き出してしまう。それが面白くなかったのかはたまた別の理由か、三井さんが眉間に皺を寄せて俺に非難めいた視線を向けた。
184cmの高身長の端正な顔に睨みつけられても、残念ながら喧嘩もしていない今は何も怖くない。
俺はなにひとつ怖くないのだ。
「ごめんごめん。コーヒーにでもすっかな」
冷蔵庫から牛乳だけ取り出して、キッチンの戸棚に置かれているスティックタイプのコーヒーを2本手にした。
ちょっと良いドリップタイプのコーヒーも常備しているけれど、今はきっとそれを淹れるのんびりとした時間は望まれていないはずだから。
湯を沸かす間にカップをふたつ用意して、それぞれにササッとスティックの中身を入れて……その間も三井さんはだんまりで、でも待ちくたびれたみたいに俺の服の裾をちょいちょい引っ張っていた。
「みついさーん。俺の服じゃなくって、はいこれ。アンタのやつ持って」
牛乳と砂糖を入れた甘めのコーヒーは三井さんの。真っ黒な俺のコーヒーに比べてやや明るい色の液体がくるくると渦巻く、湯気の立ったカップを持たせる。
俺が自分のカップを手にしてリビングに歩き出す。やっぱり三井さんはその後ろを大人しくついてきた。
ぺたぺた。ぺたぺたぺた。
二人分の足音を響かせながらたいして距離のあるわけでもないリビングに到着して、並んでソファに腰かける。
「朝晩冷えるようになったね」
「なー」
カップに口をつけた三井さんが「あちっ」と舌を出す。ふうふう息を吹きかけて湯気を逃がしながら、上目遣いに見やったテレビ画面に今度は「あ!」と声を上げた。
「この女優この間俺のチームにインタビュー来たぜ」
「女優が? アナウンサーじゃなくて?」
「今度バスケのドラマ始まるだろ。それだよ」
先ほどまでのへの字が嘘みたいにその口がよく動くようになった。けれどわずかな沈黙を挟めば、賑やかな笑い声が聞こえてくるテレビに向けられている、いつもは凛々しい眉毛がなんとなく八の字に歪む。
こんな様子だけれど、三井さんは決して何かに落ち込んでいるわけではない。
この人は落ち込むととことん静かになる人なのだ。そして動かない。ソファに座って、画面の向こうに知った顔が出ていようがまるで見えていない。
落ち込んだとき、この人の頭の中はいつもよりずっと忙しいらしい。
考えて考えて、そうしてやがて自分で答えを見つけて「よし!」と立ち上がる。それから俺がテーブルの上に置いておいた、いつもよりうんと甘いコーヒーを口にして「ありがとな」と笑うのだ。
だから、俺の後ろをくっついてきて、俺の反応に睨みまで効かせられる今日の三井さんには自分のカップを持ってもらったし、なんてことない世間話を振っても良いのである。
さて、それでは。
テレビから最近話題のアーティスを起用したCMが流れ出したところで、俺は先ほどの三井さんと違ってわざとらしく「あ」と声をあげた。
「俺あとでちょっとドラスト行ってきていい?」
「え゛!?」
ちょうどテーブルにコーヒーのカップを置いた三井さんの肩が大げさに跳ね、ここ1時間ほどで一番でかい声がした。そしてすごい勢いで俺を見るその目が、あきらかに動揺している。
「歯磨き粉買ってくんの忘れちまった」
「そ、そんなん今日は俺の使えばいいじゃねえか」
「三井さんの歯磨き粉、ミント強すぎてイテーんだもん」
頬杖をつきながらいけしゃあしゃあと宣う俺に、三井さんの瞳がゆらゆら揺れる。
「いつもよりよく磨けてる気がする!」とかなんとか言って、新調した歯磨き粉に満足げだった先月の自分を悔いていそうだ。
何かを言いたげに唇が開いて、閉じて。今度はそれを尖らせてまたむっつりと黙り込んでしまったけれど、どうにもその様子が耳を垂らしてしょんぼりする大型犬に見えるなんて、我ながら末期だなと思う。
かわいそうだ。
そしてかわいい。
本当に末期だと思う。
俺は元々好きな子に意地悪をする趣味なんて無いはずなのだけれど、どうにも三井さんが困り果てているのを見ると、自分よりでっかい2歳上の男相手に、きゅんだとかぎゅんだとかしてしまう。
「20分くらいで戻るけど、三井さん何かいるもんある?」
寝間着姿の三井さんが外に出ようとしないことを知っていてさらに話を続ければ、三井さんの綺麗な指が俺の手首をゆるりと掴んだ。
困ったように揺れていたはずの蜂蜜色の瞳が、縋るように俺を見つめている。
かわいい。けれどやっぱり。いよいよ垂れ下がった尻尾まで見え始めてしまえば――
「やれやれ」
ソファの背もたれに背を預けて、三井さんの指に自分の指を絡めた。
「いったい、今日はどんな怖い話見ちゃったのさ」
そう、ぺたぺた足音を響かせながらずっと怖がっていたのは三井さんの方だ。
三井さんは時々、テレビで流れたホラー特集だのがっつりホラー映画だのをうっかり見てしまってはひとり悶々と怯えていることがある。
いっしょに住むようになってしばらくした頃、しょぼくれた様子の三井さんに腹でも痛いのかと心配していた俺はそのカラクリを知って、見なきゃいいじゃん! と呆れながらも大笑いしたっけ。そして三井さんは、中途半端にしとく方が怖いのだと拳を握って俺に説いてくれたっけ。
その姿がバスケのことを語るときと同じ熱量を持っていたことはよく覚えている。
だから三井さんが狭いアパートの中、言葉少なにぴったり俺の傍を離れない日は、そういう日なのだ。
抑えきれない苦笑と共に促せば、垂れていたはずの耳や尻尾がピンと立ち上がった。ように見えた。
「話してもいいか!?」
デッカい体を少し猫背にして怖がって寂しがる様はかわいそうでかわいいけれど、けれどやっぱり。
「いーよ、もう。しかたないなあ」
俺の言葉を聞くなり三井さんの白い歯がこぼれて、つられるように俺の頬も緩む。
――うん。やっぱり三井さんは笑ってるのが一番いいや。
「怖いの半分もらったげるよ」
意地悪してごめんね、と耳元に唇を寄せて、絡む指をそっと握り返した。
――が、まさか三井さんが話し出した怪談話が、ここ最近聞いた中で一番背筋が凍るタイプとくれば話は別で。「もう絶対見んなよ」と念を押す声が低くなり、眉間に皺まで寄せた俺を前に、三井さんはといえば
「だから今日は二人で風呂入ろうぜ!」
なんてデカい体でぎゅうぎゅう抱き着いてくるもんだから、結局このカワイイはずの恋人に振り回されているのだと気づいて、俺は頭を抱えるハメになった。
