宝物【洋三】

 猫を飼っていた。むかしむかし、そのむかし。

 黒いランドセルが自分の背中よりうんとデカかった頃。道に落ちていた棒っきれを振り回して、テレビで観たヒーローのまねごとをしていた、そんな頃。

 学校から帰る時間、親は仕事で家の中は空っぽで。だから俺はデカいランドセルの留め具をガチャガチャいわせながら、その頃まだ元気だった祖母の家に走って行くのが常だった。

 クロ、と名のついたその猫は、祖母の家にいつの間にか居ついていたのだと言う。

 出ていかないんだもんよぉ、と祖母は困ったような顔を見せながらも、それしか可愛がり方を知らなかったのか、缶詰に入った飯をたっぷりとやっていた。

 そのせいでクロはふくふくと丸く、その身体は艶やかな黒い毛で覆われていた。

 「ただいまー」と、引き戸になっている玄関の派手な音と俺の声を聞けば、クロは決まり事のように座敷の部屋からひょっこりと現れた。俺の姿をその金色の瞳に映すと、やれやれと言わんばかりにアクビをしてからぐーんと身体を伸ばす。

 そうしてそのまま、じっと俺を見上げるクロに手を伸ばして頭を撫でてやれば、気持ちよさそうに目を細めるのだ。

 俺は何よりこの時間が好きだった。

 飯をやり、トイレを掃除して、同じ格好で眠る。
 祖母の家にいる間は宿題もほっぽってクロとくっついていた。

 俺が返って来るまで日向ぼっこをしていたのであろうクロの、太陽の光をめいっぱい浴びた温かな身体に触れる瞬間がいちばん好きだった。

・・・

「――……ゆめ」

 ずいぶんと懐かしい夢だった。今の今までわざわざ思い出すこともなかったような、はるか遠い昔の記憶。

 そのくせ色も温度もやたらと鮮やかだった。

 ぼんやりとした頭はまだ半分ほど意識が置き去りなようで、この微睡みのまま目を瞑れば続きを見られるんだろうかと思った。重力に従って落ちたまぶたが完全に視界を遮る瞬間、ふと、枕元に置いていた自分の手が目に入った。

 ぐー、ぱー。血を通わせるようにゆるゆると閉じたり開いたりを繰り返す。

 節が目立って指は太く、厚みのある手のひらは、夢でクロに伸ばした丸みのある小さなそれとかけ離れていて――夢はしょせん夢だと、そう気づいた。

 あの温かい黒猫はもういない。ずーっとずっと昔に納得したはずの現実に、いまさらどうしようもなく泣きたくなった。

「おーい水戸ぉ。そろそろ起きる時間……って、どうした!?」

 頭からかぶった布団の向こう側からでもハッキリと耳に届くその声に、俺が返せたのは鼻をすする音だった。返事をしようもんなら声が震えることは分かり切っていた。

 ずび、という音が聞こえたかどうかは知らないが、フローリングのきしむ音が聞こえたと思えば、頼りない秘密基地が一瞬で取っ払われてしまう。

「具合悪ぃのか?」

「んーん……」

 寒くなる頃にこんなふうに布団をはぎ取ったら喧嘩だよ。そんな軽口は叩けず諦めて返事をしたけれど、やっぱり喉が締まるように痛んだ。
 問いかけに頷いて、寝かせてほしいと嘘を吐けばよかった。

 せめてもの抵抗に両目を掌で覆ってみる。案の定なんの意味もなかった。すぐに手首が掴まれて、けれど先ほどの布団と違って今度は優しく、そっと、瞼に乗せていた手をどかされた。

 観念してくるりと体の向きを変えれば、俺の顔を見た三井さんは驚いた表情を見せた。きっと俺は今、真っ赤な鼻をして瞼をこれでもかと腫らしている。

 こんなふうにガキみたいに泣きべそをかいたことは、三井さんと付き合い始めてから……いや、三井さんと出会うもっと前から、無い。

「怖い夢でも見たのか?」

 三井さんは、まるで子どもを相手にするかのように柔らかい口調でそう尋ねる。俺は首を横に振って、少し考えてから口を開いた。

 怖いものなんかひとつも出てきやしなかった。

 あそこに居た柔らかくて温かいあれは、

「宝物の夢だった」

 クロは、その艶やかだった毛並みがゴワゴワとザラつくようになってからしばらく、眠っていることの方が多くなり、そのせいか飯を食わなくなり、そして突然姿を消した。

 猫とはそういうものだ、と教えてくれた祖母の背中が小さく見えた。

 いつでも食えるようにと飯の盛られた皿も、いつも寝床にしていた赤い座布団もそのままなのに、クロだけがどこにもいない。

 やりきれない気持ちをどこに持って行けばいいのかわからないまま、ただひとつ、あの温もりは――俺の宝物はもう二度と帰ってこないことだけがわかって、歯を食いしばって泣いた。

「三井さん」

 のそりと起き上がって腕を伸ばす。

 抱きしめた身体はバスケットマンにしては細身といえどたくましく、広い背中は筋肉で覆われている。ぎゅうぎゅう腕に力を入れれば三井さんが「ぐえ」とふざけた声を出すのに少し笑って、肩口に顔を埋める。

 鼻先を微量の汗の香りがくすぐった。

「ロードワーク行ってきた?」

「おー。天気いいぜ、今日。洗濯物もすぐ乾きそー」

「そっか」

 ひでえ声だな、と三井さんは鼻の詰まった俺をそう揶揄いながら、けれど大きな手のひらで背中を優しく撫でてくれた。

 そこからじんわり熱が広がるようで、お日様を浴びたらしい三井さんの身体にくっついていると、

「あったけーなあ」

 夢を見た意味が分かった気がした。

 出会いは最悪で、バスケットを愛していて、人に愛される俺の恋人。

 豪快に笑えばうるせぇし、この間は俺の買ってきたアイスを勝手に食うという典型的なやらかしで喧嘩もしたし、人に愛されるがゆえに目が離せない。
 たぶん猫と暮らした方がもう少し平穏な日々なんじゃないかと思う。

 けれどこの人の隣で俺はつられて大口を開けて笑っているし、喧嘩のあとは仲直りのキスをして、「愛してる」は二人だけで囁き合う。

 そのどれもが俺の心をひだまりの中に連れて行ってくれていることを、この人は知っているだろうか。

 三井さん。まるで対応そのもののようにあったかい、今の俺の宝物。

「俺、三井さんと一生いっしょにいたい」

 抱きしめた身体がいつか、その熱を失う日が来ることを俺たちは知っている。ならばせめて、どうか、その瞬間まで手を握っていたい。

 そんな気持ちが溢れて口から零れ出た俺の言葉に、耳元で三井さんが息を呑むのがわかった。「水戸」と名前を呼ぶ声に「ん」と返事をしてみるけれど、それから続いた沈黙に呼ばれた意図を察して、少しだけ迷いながらそっと顔を上げる。

 腫れぼったい瞼のまま目を合わせれば三井さんは満足そうに頷いて、背中から離した手で俺の手をとった。

 そして、音にしなかったはずの俺の願いも聞き届けたかのように丁寧に指を絡めて、

「俺もおんなじ気持ち」

 そう言って笑った。

 ぶわ、と胸からこみ上げる何かが抑えられそうになくて、誤魔化すように慌ててもう一度顔を伏せる。なのに三井さんは絡めた指が離れないように力を入れて、空いたもう片方の手で俺の頭を撫でるもんだから、その手の優しさに、押し出されるみたいにほろりと涙が零れた。

 嬉しくて泣くなんて、人生で初めてのことだった。

 頬を流れる雫さえ温かいなんて。俺はこの人に一生敵わないんだろうと思えて、それが幸せで泣きながら笑った。

・・・

 その夜、クロが再び夢に現れた。見上げる金色の瞳に伸ばした手は、ごつごつと骨ばった今の俺のそれと、俺よりいくらかしなやかな指をしたもうひとつ。

 ふたつの大きな手のひらに頭を撫でられて、クロは気持ちよさそうに目を細めた。「ニャァ」とひとつ鳴いた後、くるりと背を向けてやけに明るい光の差す方へ歩いていく後ろ姿を黙って見送る。

 俺の手にはしなやかな指が絡んでいて、俺はその手の持ち主が誰なのかなんて、見なくたって知っていた。

 目が覚めたら、抱きしめてキスをしよう。寝癖を笑って、朝ごはんを食べて、そうしてアンタの居る今日を一緒に生きよう。

 夢なのにハッキリとした温かさを持つその手を、そっと握り返した。

 

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