1月1日、元旦。夕方。水戸洋平はコンビニにいた。
ほんの20分ほど前まで店員として着ていたこの店の制服を脱いで、今は客として。水戸が働いていた間と変わらず店内はとても静かで、今日から3日間限定の店内BGMだけが繰り返し流れていた。
一年を通してこの時期にしか聴くことがないのに、ずいぶんと馴染みのある、箏と尺八が奏でるその曲が「春の海」というタイトルなのだと水戸が知ったのは昨年の正月だった。
新年の幕開けにふさわしいこの曲によって、めでたい気持ちに拍車をかけた人々の行く先はいつでも行けるコンビニなどではない。きっと大きなしめ縄の飾られた神社だったり、福袋や初売りを目玉にしたデパートだったりするのだろう。
だから今日、この店は本当に暇だった。とある売り場の前に立ちながら、水戸は思い返す。
手持ち無沙汰なときに頭に浮かべたのは、恋人の顔。
水戸より2つ年上の、豪快なくせに繊細で、ハンサムで、バスケットを愛している男。今、彼は何をしているだろうとそればかり思ってはこっそりとため息をついていた。
だが――……
「水戸くんがお弁当売り場じゃない所にいるの、珍しいねえ」
箏と尺八のメロディに割って入った声に顔を上げると、この店のオーナーが隣の通路からひょっこりとこちらを覗いていた。
一度目を合わせてから、水戸は自分の目の前にある棚に再び視線を戻す。
BGMに負けず劣らずめでたさを感じさせる赤色の専用棚が目を惹くそこは、年賀状売り場だった。
「まあ、正月ですからねえ」
否定もせず水戸がのんびりと答えると、オーナーは苦笑、というよりは申し訳なさそうな顔をした。今日、入りの挨拶をした時から何度か目にした表情だ。
「本当に悪かったね。急にヘルプに入ってもらって」
「はは。んな気にしないでくださいよ。言ったでしょ、」
予定が無くなっちまったんで。そう続けた水戸は、おどけるように肩をすくめてみせた。
1月1日の今日、水戸も本当ならば道行く多くの人々と同じように、新年に心踊らせながら恋人としめ縄の飾られた神社へ初詣に行く予定だった。
それも大晦日から恋人のアパートにお泊まりをして。
そんな予定が予定のまま終わってしまったのは、大晦日を3日ほど前にしたタイミングでかかってきた、恋人の実家からの電話が元だった。
大学に進学してから一人暮らしを始めた恋人は、一年生だった年には年末年始に実家に帰ったものの、たいして特別なことはしなかったからと、今年は年が明けて少ししたタイミングで帰省するつもりだった。
てっきりその日取りの確認かと思っていたが、「親父が?」と聞こえた声に水戸は思わず見ていたテレビの音量を3つほど下げた。
あーとかなるほどとかうーんとか、聞こえる一通りの相槌はどれもどこかふわっとしていた。だから緊急性は無さそうだと察しながらも会話の核には迫れないまま、水戸はもぞもぞとこたつ布団を腰まで引き上げて天板に顎を乗せた。
しばらくして「一旦、折り返すわ」と受話器を置いて戻ってきた恋人を見れば、いつもは凛々しい眉毛が見事な八の字を描いていた。
あのよ、と切り出した恋人に、水戸は姿勢を正して続きを待った。
電話は母親からで、先日父親がぎっくり腰になってしまったこと、重度ではないが未だ万全には至っていないこと。それから年明け、数年ぶりに親戚が顔を出しに来る予定ができたから、できれば同席してほしいこと……。
ぽつぽつと明かされる内容のひとつひとつを、水戸は「うん、うん」と静かに聞いた。
恋人の声がだんだんと小さくなるのも、「ぎっくり腰なんだからさ、親戚はさ、いいじゃんなあ。断ったってさ」と笑うその眉が相変わらず下がっているのも、水戸はまるで鏡でも見ているかのような気持ちになった。
「三井さん」
水戸も恋人も、二人で過ごすゆく年くる年を本当に楽しみにしていたのだ。
お互いそれは十分すぎるほど分かっていた。だから。でも。恋人の名前を呼びながら水戸は思った。すぐに断らなかったのが答えでしょ、と。
「実家、行っておいでよ」
「う、でもよ……」
「俺はだいじょーぶだから。ぎっくり腰って大変らしいじゃん。それに、親孝行はしとくもんだよ」
そう言ってやれば、年下のくせにとか、生意気とか、恋人はこたつの中で長い足をぶつけてきた後、「……悪いな、ありがと」と唇をつんと突き出した。お誘いかと思って水戸が顔を近づけて軽く触れてやれば、「ちがう!」と顔を真っ赤にする姿にケタケタ笑った。
恋人の背中を押したことになんら後悔はない。良い子ぶったつもりもない。
ただ、ぽっかり空いてしまった年末年始の予定とそれからここは、どうにも一人では持て余す。
どうしようかと水戸が思っていたところで、バイト納めの予定だった30日の退勤時、オーナーから声がかかった。31日と1日にシフトの入っていたバイト仲間が体調を崩したと。
ダメ元でみんなに声をかけている、と言うオーナーに水戸は食い気味で了承した。
せめてバイトに精を出していれば、恋人を想っては背中を丸めたくなる気持ちも紛れるだろうと思ったのだ。
残念ながら水戸のその思惑は外れた――だが、頭に浮かぶ恋人の顔にため息をついていたのも昼過ぎまでのことだった。
恋人の顔を思い出した回数に反して、今日水戸がレジを通した客の人数は両手の指をようやく埋める程度。水戸は客がそれぞれ何を買っていったのかだいたい記憶している。
常連のおじさんが煙草を、トラックの運転手がお弁当を……そして幼稚園くらいの男の子と手を繋いだ母親が、年賀状をレジに置いたのもしっかりと覚えている。
親子の目の前でなければ、その時水戸は閃いたとばかりに、ぽんと手を打っていただろう。
一緒に過ごせなかった正月。別に水戸の住むアパートと恋人の実家はそう遠くはないが、さすがに年始にしれっと顔を出せるような度胸はまだない。
恋人が一人暮らしのアパートに戻る頃、世間はもう正月三が日を過ぎて日常に戻りつつあるはずだ。遅れた年始の挨拶や初詣が、決して嫌なわけでもない。
だがとにかく水戸は、今年の正月を恋人と過ごせなくて残念で、寂しかったのだ。
この箏と尺八のメロディに街と人々が浮かれている間に、ひとつくらい、正月らしいことをしたかった。
これだ、と思った。客を見送った後、今日までじっくりと見ることのなかった売り場まで足を運んでみれば、意外と絵柄が豊富なことを知った。
退勤時間まで、棚を整理したり細々と作業をしながら頭の中でどんな絵柄にしようかと考えた。ため息は止まっていた。
そうしてタイムカードを押して制服を脱いだ水戸は今、年賀状売り場の前にいる。
「お正月手当つけておくからね」
「ありがとーございます」
軽く目を合わせて頷き合ったオーナーが通路を離れてから、水戸は赤い陳列棚に手を伸ばした。
いろいろと考えた。ピンクが強いのはちょっとなとか、謹賀新年の文字は縦がいいなとか。ちょっとだけ、自分でも何か書くスペースがほしいなとか。悩んだ結果、水戸は一つのパッケージを手に取った。
上半分に今年の干支の置物と、新年にまつわる門松や梅の花のイラストがあしらわれていて、下半分に新年の挨拶が印字されている。丸っこく愛らしい絵柄、柔らかい色づかいのそのデザインに、水戸は自身でもらしくないなと思った。
けれどこれが一番しっくりきた。
恋人を思い浮かべるとき、隣にいるとき。水戸の心はいつもじんわりと温かくなり、穏やかな気持ちになることを思い出せば、その絵柄を手に取ることは必然だった。
パッケージには3枚入っているらしい。バラ売りはいつの間にやら在庫が無くなっていたようなので、仕方がない。水戸は途中の文具売り場でサインペンを1本手に取って、それらをレジに置いた。
「いいねえ、年賀状」
商品をバーコードを読み取って、オーナーが微笑む。
「まあ、1枚ありゃじゅーぶんなんすけどね」
水戸も笑った。帰る先は一人だけのアパートだけれど、もう寂しいとは思わなかった。
・・・
1月4日、昼。三井寿は一人暮らしをする自分のアパートにたどり着いた。
本当に疲れた、と三井は2階にある自分の部屋へと続く階段の前で大きく息を吐く。
ぎっくり腰の父親の代わりということである程度の覚悟はしていたものの、大掃除のあれやこれやの手伝いから始まり、ついでに何も分からないのにお節の準備も手伝い、新年の飾り物も教えてもらいながら用意して、歌合戦を見る頃ようやく一息ついて。
的確な指示を出す母親と右往左往する三井の様子を、当の父親は申し訳なさそうな顔をしながらも時折ニコニコしながら見ていた。
年が明けて三日めは親戚を迎えて、叔父や叔母からのそれはまあ様々な質問に当たり障りない答えでやり過ごした。
疲れた、けれど苦ではなかった。毎年、年を納めるために掃除をして新しい年を迎える準備をする両親のことは純粋に尊敬したし、親戚との会話もまあ、たまになら良いかと一人苦笑した。大変だったが必要なことだったと思う。
ただ三井にはひとつ、どうしても気がかりなことがあった。
このために予定をすべてキャンセルしてしまった恋人のことだった。向こうは気を遣って電話をかけてこず、三井もまた、実家から電話をかけるそのタイミングを悉く見失ってしまい、ついに今日まで新年の挨拶も先送りになってしまった。
ぽっかりと空いた年末年始を、果たしてどう過ごしたのだろうか。
実家からの途中に恋人のアパートに立ち寄りたかったが、そういえばバイトを入れていると言っていたことを思い出して仕方なくまっすぐ帰ってきた。
とりあえず、両親から持たされたいっぱいの荷物を部屋に運ぶか。そう気合いを入れ直そうとして、はたと、三井は自分の右側を見やる。銀色の四角い枠が並ぶ、郵便受けに目を留めた。
年末年始、自分に届くものでたいした郵便物など無いが、けっこうな期間留守にしていたことだし確認しておくか。なんとなくそう思って、右手に持っていた餅やら菓子やらが入った大きな紙袋を下ろし、銀色のその扉を開けた。
「……あら?」
中にあった封筒の類をまるごと手に取った三井は声をあげた。
ダイレクトメールの間、一枚の白いはがきが見えたのだ。左手に持っていた自分の鞄も乱雑に放って、それをつまむ。
するりと出てきたのは年賀状だった。
「えっ、水戸!?」
三井の驚いた声がアパートの敷地に響く。自分の声にハッとした三井は口を片手で押さえ、誰が見ているわけでもないのに慌てて荷物の持ち手に腕を通して階段を上る。年賀状がくしゃくしゃにならないように右に左に持ち替えながらバタバタと鍵を開けて部屋に入ったところで、三井はようやく脱力した。
再び荷物を下ろして、靴も脱がずに手の中の年賀状に目を落とす。
表面に「三井寿様」と宛名が書かれている。そして左下には、何度見ても見間違えようがない、「水戸洋平」の文字が。住所は無い。直接投函したのか、いったいいつ。
三井はしばらくじっと、自分の名前を見つめた。
恋人が自分の名前を書いた文字を初めて見た。サインペンで書かれたそれをそっと撫でる。
昔、子どもの頃、三井は自分の名前に横棒が多いからと勢いよく線を引くように名前を書いていた。それを咎めたのは、小学生の間だけ通っていた習字の指導者だった。「三」の字は真ん中が短いこと、「寿」の書き順、空白の幅。一画ずつゆっくり丁寧に書きなさい、と教わった。
――あの頃の俺より、ずっと綺麗に書けてる。
習字を習っていた人間の書き方ではないな、と分かった。それでも丁寧に書かれた字だということは、左下にある差出人の、手癖で少々雑に書かれたその字との差からも充分に伝わってきた。
中央に並んだたった三文字。眺めれば眺めるほど、三井の心はぎゅうと締め付けられるようだった。
自分の名前を、自分以上に大事に書いてくれるその存在に、愛しさでいっぱいになった。
はあ、とひとつ息をついてから、三井は年賀状をひっくり返す。
「わは」
思わず笑みがこぼれた。予想に反して丸いタッチの絵柄が目に入ったせいだった。三井の恋人はいつだってスマートでカッコいいけれど、時折見せる年下らしいかわいさで三井の心をくすぐる。だからその年賀状の絵柄も、微笑ましさこそあれど意外とは思わなかった。
そして――
「願い事書くとこじゃねえんだけどな」
年賀状の下半分、謹賀新年とともに印字された「本年もよろしくお願いします」という定型文の隣。手書きで二行、加えられていた。
――来年も再来年も、ずっとずっと三井さんといられますよーに。あけましておめでとう。
三井の恋人は、神に願うタイプではない。初詣はどちらかと言えばノリだけで神社に行く男だし、7月には商店街に飾られた七夕の短冊にすら気づかない。そんな男が願うのは、一人だけ。
物わかりの良い寂しがり屋な恋人の願いを叶えられるのは、三井だけだった。
三井は先ほど閉めたばかりの扉を開け、財布をポケットに突っ込んで部屋を飛び出した。恋人のバイト先に向かうため。先ほど乗ってきた電車を反対方向に引き返すことになるが、そんな手間などどうでもよかった。
とにかく水戸洋平に会いたかった。
あの、自分より背の低いのに筋肉のしっかりとついた身体を抱きしめたかった。なんでこの絵柄を選んだのかとか、一発で名前を書けたのかとか、聞きたいことがいっぱいあった。
ああでもとにかく、あけましておめでとうと言わなくちゃ。
それから、一生よろしくなって言わなくちゃ。
三井は走った。息を切らせて。三井の姿を見つけて、その手の中にあるものに気づいた恋人が顔を真っ赤にする様子を思えば、自然と口角が上がった。
水戸洋平からもらった初めてのラブレターを握りしめて、三井はさらに一歩、強く地面を蹴った。
