その瞳とその口で【洋三】

 忘れ物に気づいたのはバイトが終わった後だった。

 まず第一にダルいなと思って、知らないフリをしようかと逡巡して、次にカレンダーを見て明日は学校が休みだということを思い出した。ため息をつく。「お疲れーっす」と声をかけて、明かりの少ない夜道、家とは反対方向へ歩き出した。

 別に幽霊の類を信じているわけじゃないけれど、夜の学校っていうのはそれなりに雰囲気がある。ただ俺としては見回りの教師に見つかる方が面倒なので、用事を済ませてとっとと帰りたいところだ。気持ち大きく一歩を踏み出して校門をくぐった時、静かな夜に聞き慣れた音が響いていることに気が付いた。

 体育館の方から、ボールの弾む音がする。

 呼ばれるように足は音の出どころへ向かう。以前花道が、遅くまで体育館を占領されると憤っていたけれど、流川が練習でもしているんだろうか。明かりの漏れる扉からそっと中を覗き込むと、予想とは違う人物がそこにいた。

 素人目にもわかる綺麗なフォームで、リングにボールを投げる三井さん。

 三井さんの手を離れたボールが、パスッと軽い音を立ててネットを揺らした。

「ナイスシュート」

「どわぁ!?」

 シャツの首元で汗を拭う背中に声をかけると、大げさにその肩が跳ねた。

「びっ……くりした。水戸かよ!」

「はは! 驚きすぎだろ。ユーレイかと思った?」

「ああ?」

 俺がからかうと、三井さんは面白くなさそうに眉間にしわを寄せて大股でこちらに近寄ってくる。

「こんな時間に何してんだよ、不良め」

 途中で拾い上げたタオルでもう一度汗を拭いながら、時計を見上げてそう言った。

 三井さんが、自分をボコボコに殴った年下の不良に向かってこんな風に強気に物申せるようになったのはわりと最近のことだ。俺の謹慎が明けてからしばらく、三井さんは俺を見かけては気まずそうに、もしくはちょっと警戒するように顔をこわばらせて花道の後ろにこっそり隠れていたから。

 練習を覗きに行く度に、そして試合を応援する度に三井寿という人間に惹かれていた俺としては、少しばかり寂しい気持ちを抱えていたのだけれどそれは内緒の話だった。

だから、いつも通り練習を覗いていた俺にずかずかと近づいてきて、唐突に「お前次の試合は来んのか」と尋ねられたあの日のことは今でもよく覚えている。

 そんなわけで、今こうしてこの人がわざわざ俺に歩みを寄せて、憎まれ口でも――いやむしろ憎まれ口を叩けるくらいには気を許してくれていることが嬉しかったりする。

「ちょっと忘れ物取りにね」

「そんなん気にすんの、お前」

ごもっともである。正直なところこれが教科書だったり辞書だったりしたら、わざわざ生ぬるい風を感じながら夜の学校に舞い戻るなんてことはしていない。

「弁当箱なんだよね」

 昼休みが終わると共に出番の無くなった弁当箱は、めったに持ち帰らない教科書やノートで雪崩を起こしている俺の引き出しの中でさぞ窮屈な思いをしているだろう。いくら夏を過ぎたといえ、まだ残暑の厳しい9月。エアコンの無い教室に丸一日置いておくのは気が引けた。

「たまに昼飯を弁当にしたらこれだよ」

 肩をすくめる俺に、三井さんは何かを考えるように少し黙った後、「ああ。明日休みか」と呟いた。

その気づきが何分か前の自分と重なって、ただそれだけなんけれど思わず頬が緩みそうになる。

「タイミングの悪いこったな」

 わずかに同情の色を乗せた声に、

「そうだね」

 俺は形だけの同意を返した。そしてこっそりと心の中で付け足す。

 ――そりゃさっきまでの話だけど。

 なんなら今は、弁当箱の存在を思い出してこうして取りに帰ってきた自分に拍手でも送りたい気分だ。もう少し遡って、そもそも忘れ物をした自分を褒めてやったっていいと思っている。

「あのさ、一緒に帰らない?」

 好きな人と二人きり。たぶん、少なからず浮かれていた。

 返事を待つ俺の視線と、驚いたようにこちらを見下ろす三井さんの視線が交わって――一瞬何かを迷うように揺れた瞳の、その真意を探るより先に視線は逸らされてしまった。

「……そうするか」

 可能性は五分五分か。そう思っていた俺は、期待していた方の返事が返ってきたことに目を見開いた。

「えっ、ホントに?」

「お前が言いだしたんだろが」

 三井さんは目を合わせないまま、ガシガシと後頭部をタオルごと雑に掻いた。唇を尖らせた横顔が年上のくせに子どもみたいだ。

「じゃあ、うん。弁当箱とって戻ってくるから、待ってて」

 くるりと背を向ける俺に向かって「すぐ帰って来いよ! 5分だけ待ってやるからな!」って、あんたユーレイ怖いだけなんじゃないの。そう尋ねたくなるくらい念を押してくる三井さんのでけぇ声に、ははっとわざとらしく笑い声を漏らす。そのまま手をひらひらと振って返事の代わりにした。

 振り向いたら、だらしないニヤケ面を見せることになりそうだったから、しかたない。

・・・

「ミッチーこの間、花道の見舞い行ってくれたろ。嬉しそうだったよ」

「アイツ、言うなっつったのに……」

「花道に隠しごとは無理さ」

 三井さんと肩を並べて歩く夜道、意外と話題に困ることは無かった。

 部活のこと、さらに掘り下げて部員それぞれのこと。スタメンの後輩組はかわいげが無い、なんて言いながらあの試合のあのプレーは良かった、あの技は感心するなんて話が一を聞けば十返ってくる。他の部員のことも、どこどこが弱点だけどここが良いところ、と考える様子もなく言葉を紡ぐ姿に感心する。

 人ひとり分空けて隣を歩く三井さんの横顔を見上げる。

 バスケ部のことを話すその瞳が、宝物を自慢するみたいにキラキラしている。

 軽口も叩く。雑談もする。その話題の大半はバスケットに関することで、話せば話すほどこの人にとってバスケットが、部活がどれだけ大事なのかを目の当たりにする。その眩しさに、俺は自分の邪な気持ちに蓋をする。

 そして気づいたことはもうひとつ。三井さんは俺と話すとき、さり気なく視線を逸らす。時計を見上げたり、タオルで顔を拭いたり、足元に落としてみたり。

 俺は三井さんと会話をする度に、嬉しい気持ちといっしょにチリリとした胸の痛みを感じて、ああ好きって面倒くせえなと思うんだ。

「あ、猫だ」

 会話が途切れて、三井さんが不意に声を上げる。

 その声につられて目を向けると、金色の瞳を持った黒猫がのんきに毛づくろいをしていた。迷いなく三井さんは黒猫の元に歩み寄って、俺よりでかいその体を屈めて、そっと手を伸ばした。

「お前デブだなぁ」

 かわいいとか言わないあたりが三井さんだ。この辺りで飼われているんだろうか、ずいぶんと人に慣れた様子の猫は、三井さんの手に鼻を近づけて匂いを嗅いで、デブだと失礼なことを言われたのに頭をぐぐっと押し付けた。

「ふは、警戒心ゼロ」

 目を細める猫の頭をぐりぐりと撫でる三井さんの隣で、俺は立ったままその様子を眺める。ふと、思い出したことがあった。

「ミッチーさあ」

「あー?」

「見たものとりあえず声に出す人?」

 さっき通りがかった駅の近くでは、「お、新しいラーメン屋できんのか」と貼り紙を見て言っていた。花道にも似た部分があるけれど、声のでかい花道と違うのはそれが俺に話しかけているのか独り言なのか分からないくらいの、本当に呟き程度だということだ。

 俺の質問に三井さんは少し考えるような表情をしながら、黒猫をひょいと抱き上げた。

「好きだからじゃね?」

「んっ?」

「俺、猫好きなんだよ。あとラーメンも美味いし。好きなもん見るとつい口から出ることあるだろ」

「……俺は無ぇかな」

 小学生みてぇだな、と心の中だけで笑う。でもその素直さこそがこの人の良いところで、それを好きだなと思ってしまう自分はどうしようもない。

 三井さんが学ランに毛が付くことも気にしない様子で腕に抱えている猫がニャァと鳴く。

 俺が絶対にもらえないと諦めた言葉をあっさりと受け取る無垢な金色の瞳に、嫉妬心をぶつける俺の気持ちなんて知らないまま、空を見上げた三井さんは「お」と言った傍から声を上げた。

「今日の月でっけえのな」

 へら、と笑う。目線は合わない。月も好きなの、とは聞かなかった。

 バスケと、猫と、ラーメンと。あんたが好きなものを映すその瞳に、俺は入れてももらえない。せっかく二人で肩を並べて歩いたって、俺たちの距離は人ひとり分空いてんだ。

 ほらまた。チリリと痛む胸を誤魔化すように足元の石ころを蹴飛ばした。

 さっきまで喜んでたくせに今は拗ねてて、俺が一番ガキみてぇだ。

・・・

「お、水戸だ」

 だからあれから数日経って三井さんの声を聞いた時、俺は信じられない気持ちで目を見開いた。

 昼休みにいつも通り大楠たちと飯を食って、3人が食い足りねぇと購買に走るのを見送った後、ごろりと固いコンクリの上に寝転がって目を閉じた。夏よりいくらか和らいだ陽ざしが心地良くて、このまま午後の授業はフケちまおうかななんて思っていた時、ギィ、と鈍い音を立てて屋上の扉が開いた。

 大楠たちにしては早すぎると、そのまま扉に背を向けて寝転ぶ俺の耳に届いた言葉。

 つい零れたみたいな、でも少し弾んだそれ。

 勢いに任せてガバッと起き上がると、俺の背後にいた三井さんが虚を突かれたように「うおお!?」と声を上げる。

「お前寝てたんじゃ……!」

「起きてたよ。ねえミッチー、今、」

 俺が最後まで言う前に、三井さんがハッとしたように自分の口元を押さえて「ちがう」と首を振った。でもその首筋がうっすらと赤みを帯びているのは見間違いじゃないはずだ。

 跳ねる心臓の音に押し出されるように名前を呼んだ。

「三井さん」

 ミッチー、っていつも通り呼んでる場合じゃない。こちとらマジだぜ。

「俺、あの帰り道の話覚えてるよ」

 三井さんは一歩後ずさろうとしたところで俺に手首を掴まれて、混乱を極めたみたいな表情を見せた。

「俺さ、三井さんのこと好きなんだわ。だから今すげえ期待したいんだけど――あのさ。三井さん、俺のこと好き?」

 手首は強く握ってはいない。振り払えばまだ逃げられる程度の力しか込めていない。

 けれど三井さんはそうはしなかった。そうはしないまま、じっと見つめる俺の視線と交わる瞳があの日と同じように揺れて――ふい、と逸らされたと思えば

「あんま見るなよ、照れるだろが!」

「は?」

「お前いっつもじっと見てくるから、俺の気持ちバレたらどうしようって気が気じゃねえんだよこっちは!」

「三井さん?」

「そうだよ俺ぁお前のこと好きだよ! でもお前は桜木の大事なダチだし……話せるようになっただけで良かったんだよ、なのにっ……。お前知らねぇだろ、こないだ一緒に帰ろうってあれ、俺がどんだけ嬉しかったか。もうぶっ壊したくねぇのにどんどん欲張りになって――」

 俺の声が聞こえてないみたいに捲し立てる三井さんのよく動く口が、はた、と何かに気づいたように中途半端に開いたまま止まった。あさっての方を向いていた視線が戻ってきて、俺を捉える。

「お前さっき、俺のこと好きっつった?」

「あ、よかった。俺の一世一代の告白、無かったことになんのかと思った」

 よかった。もう一度呟く。手首を離してやっても身動きがとれないようで、呆然と固まってしまっているその人の赤く染まった頬を両手で挟む。

「三井さん、俺のこと見て」

 もうそっぽなんて向かせてやんない。

「好きだよ」

 俺を見つめる瞳にうっすらと水の膜が張る。

 ああ、アンタの瞳に入れないと拗ねていたガキで大馬鹿野郎な自分を殴ってやりたい。

「もっと早く言えば良かったね」

 たった4文字の俺の言葉を、こんなふうに受け止めてくれる三井さんをちゃんと見ろと言いたい。

「いつから、」

 ようやく俺の言葉を飲み込んだらしい三井さんが、絞り出したように尋ねる。ぱち、と瞬きをするのと同時に一筋だけ雫が零れ落ちたから、親指でそれを拭ってやる。

「そうだなあ。そのへんの答え合わせは俺もじっくりしたいところだからさ」

 ――とりあえず今日、一緒に帰ろ。

 俺の提案に三井さんはコクコクと頷いて、それから、何かを確かめるように自分の頬に添えられた俺の手にそっと手を重ねて、言った。

「水戸。俺も好きだぜ」

 返ってきたその言葉に胸がぎゅうっとなって、ガラにもなく勢い任せに三井さんを抱きしめた俺は、これまたガラにもなく「大事にします」と宣言して三井さんに大笑いされたのだった。

 

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