三井さんとのお付き合いはスローペースだった。事情を知っているアイツらも、昼休みの屋上で面白半分に俺の話を聞きたがったくせに、いざ話せば「まだキスもしてない!?」ときれいに声を重ねる程度には衝撃だったらしい。
「なんで。好きなんだろ」
そう尋ねたのは野間だった。見れば、野間だけじゃなくて大楠も高宮もおちょくるどころか真面目に困惑した顔をしていた。
花道だけが「一緒に下校するだけでも楽しかろう」と頭ひとつ突き抜けたプラトニックラブで理解を示してくれた。
「好きだからだよ」
綺麗なシュートフォーム。ふらふらの背中。笑ったときの顔。面倒見のいいとこ。
最初はムカついたしダセェとこだって見たはずなのに、いつの間にか目で追いかけては、眩しい人だなと思った。そんな人が俺を好きだと言ってくれたことがいまだに不思議で、くすぐったい。
「大事過ぎて手が出せないってあるのな」
はー。とため息をついた俺の後ろで、先ほどまで困惑顔だったはずの3人が「洋平とミッチーが何か月後にキスするか」と賭けをし始めたので、一発ずつ拳をお見舞いしてやった。
――俺だって、本当はもっと近づきたい。
三井さんと家デートをすることになったのは、そんなことを考えていた矢先のことだった。
・・・
その日、三井さんは一本の映画を借りてきた。
何か雑誌でも見たのだろうか、「映画観ようぜ。お家デートの定番なんだってよ」とはにかむのがかわいい。
これ新作でよ、と靴を脱ぐのも忘れているのか早速レンタルビデオ屋の袋から一本のソフトを取り出して説明してくれた。俺が「いいね」と手の中のソフトを覗き込めば、嬉しそうでもあり得意げにも見える笑顔が返ってきたので、その純粋さに天を仰いだ。
もしかしてなんて、あんなことやこんなことを想像してはソワソワしていた、邪な心を持った自分はいつかの悪友たちと同じく頭の中で殴って静かにさせた。
飯を食って、バスケの話をして。さあいざ鑑賞会を始めましょうというとき、
「電気消そーぜ。あと……カーテン、閉めた方が雰囲気出るんじゃねえ?」
ダメか? と三井さんは家主の俺に気を遣ったのか、窓を指さしながらそろりとお伺いを立てた。
映画鑑賞というものに縁の無かった俺からすれば、そういうものかと思うだけで、断る理由は見当たらなかった。
近くにあった電気の紐を引っ張って明かりを落とす。
部屋は暗くなったけれど、なるほどたしかに、窓の向こうから届く光や音は映画の世界に入り込むには日常的すぎる気がした。
サァ、と軽い音を立てて薄緑色のカーテンを閉める。外ではしゃいでいた子どもたちの、楽しそうな声が遠くなった。
陽の落ちるのが早くなった冬の夕方。狭い俺の部屋はカーテンを透けて届く微かな光が淡く広がる程度の薄暗い闇に包まれて――
「……雰囲気、出るもんだな」
カーテン一枚。たったそれだけなのに、まるでこの部屋だけ世界から切り取られてしまったみたいに思えた。
今、ここにいるのは俺と三井さんの2人だけ。
今更にもほどがあるシンプルな事実を目の前にした俺が頭を抱えたい気持ちになったことは言うまでもない。
ソファなんて豪勢なものは家になく、座椅子を二つ並べて隣り合って座った。三井さんが座椅子をぴったりと隙間なくくっつけるのに動揺して、でもやっぱりそんな俺におかまいなしに「早く」と再生をせがむものだから、俺はここから2時間、心を無にすることに尽力する未来を見た。
その予想は裏切られることなく。
薄暗い部屋の中、座椅子と同じくぴたりとくっついた肩から伝わる体温だとか、突然の銃撃戦に驚いた三井さんの手が予告なく触れてくることだとか、そんなことに意識をとられまくった挙句「なあ今のってどういう意味?」と、映画館でもないのに顔を近づけて耳元で尋ねられた俺の心境たるや。
まったく映画の世界に入り込めない俺は「見てれば答えが出るんじゃねえ?」なんて笑って誤魔化すしかなかったし、手のひらには爪の跡がつくくらいに強く拳を握り込んでいた。
誰かと恋人になることは初めてじゃなかった。
なのにずっとドキドキしていた。あんまり近づかないでくれと思った。心臓の音が、銃撃戦の音よりうるさかった。
誰かを好きになることは、初めてだった。
扱い方を知らない恋心は、ふとした時に零れ落ちた。その心を拾い上げてくれた三井さんが、「俺も」と笑ってくれて、俺たちは今こうして隣に並んでいる。
キラキラしたあの笑顔を、俺は今でも覚えている。
だからダメなんだ。いつだって眩しいこの人に、欲望のままに手を伸ばすことはどうしても許せなかった。
長いエンドロールが終わった頃にはもう夕方なんて時間を通り越していて、部屋の中は真っ暗だった。
「おもしろかったな!」
大きく伸びをして背中の骨を鳴らす三井さんに、俺はややげっそりとしながら「そうだね」と返事をした。もちろん、映画の内容はほとんど覚えちゃいない。
とにかく明かりをつけよう。あぐらの姿勢から立ち上がろうと膝を立てた俺の服の裾が、くん、と引っ張られた。
ほぼ反射的にそちらを見やれば、暗闇に慣らされすぎた目が三井さんの瞳とぶつかった。
裾がもう一度くん、と引かれたので、上げかけていた腰を下ろして三井さんと向き合う。目線の高さが揃うなり、三井さんは裾を掴む手はそのままに口を開いた。
「銃撃戦のとこさ、びっくりしたな」
「ね、音すごかったし」
「あと……」
正直な話、あまり深い内容に突っ込まれるとボロが出るので当たり障りのない返答しかできなかった。三井さんの続きを待つ間、必死に記憶を巻き戻して内容を思い出すけれど、やっぱりところどころの映像しか出てきてくれなくて、わりと焦った。
けれどエンドロールの後「おもしろかった」と言ったはずの三井さんは、口を噤んでしまった。
「三井さん?」
その様子を不思議に思って、ほんの少し顔を近づけて名前を呼ぶと、ようやく三井さんの口が動く。
「途中でわかんなかったとこ、やっぱわかんねーままだった」
「あ、あー」
どこだっけ。耳元で聞こえた三井さんの声しか覚えていなくて、目で見ていたはずの映像は何一つ覚えちゃいない。
詰んだ。そう思った俺の耳が、今度はやけに小さなその声を拾った。
「あんま、話覚えてない」
尋ねられたわけではなかった。俺の曖昧な返事を責めたわけでもなかった。
三井さんは、三井さん自身のことを言っていた。
「ん?」
聞き間違いかと思って首を傾げると、凛々しい眉毛が何かを振り切ったようにさらにキリリと吊り上がった。
「お前が! いつ手ぇ出してきてくれるかと思ってドキドキしてたんだよ!」
先ほどまでとは一転、下手したら隣の部屋から壁を叩かれてもおかしくない声量で、三井さんは半ば叫ぶように言った。
「カーテンも閉めて、電気も消して! 暗いし雰囲気ばっちりだったろ!?」
「……えっ!?」
言われたことが咄嗟に飲み込めなくて、ようやく出た声はひっくり返った。
そりゃもう、驚きしかなかった。なんで分からないんだとばかりにこちらを睨みつける三井さんを前に、俺はただただ口をあんぐりと開けて間抜け面を晒していた。
沈黙が続く間、俺の脳みそはフル回転だ。
あんなに映画を楽しみにしてた様子だったのに。三井さんの期待した家デートは、俺と同じだったんだろうか。
ぴったりと寄せた座椅子で肩をくっつけたのは、ただの無邪気ではなかったのか。じゃあ三井さんの心臓の音もうるさかったんだろうか。
電気を消そうと言った時。それからカーテンを閉めようと言った時。俺にそろりとお伺いを立てた時のあの、ねだるような瞳の意味は。三井さんの言っていた、雰囲気とは。
「……三井さん、」
裾を握るままの手に、そっと自分の手を置く。
思わずだったのか裾から離そうと開かれた手を逃がすまいと握り込んで、指を絡めた。
「俺、映画中ずっとドキドキしてたよ。キスしたくってたまんなかった」
明かりが無いから。暗いから。心の中で言い訳を重ねて、三井さんの表情が見えるようにぐっと顔を寄せる。
キス、という直接的な言葉に驚いたのか、先ほどまで凛々しかったはずの眉毛が困ったように下がっていて、分かりやすさに頬が緩む。
眩しいこの人に、欲望のままに手は出せない。けど、もし――
「三井さん、教えてよ。どう俺に手ぇ出してほしかったの」
――俺と同じでいてくれたら。進むためには、三井さんの気持ちが必要だった。
まるで恋人になったあの瞬間みたいに、祈っていた。
閉められたカーテンの向こうで、走る車の音が一度だけ遠く遠くに聞こえた。けど、それっきり。外はやけに静かだった。
「今、ふたりきりだよ」
きゅ、と握っていた指に力がこもった。お互いにだ。
暗くても分かるほどに顔に熱を集めた三井さんは、眉間にぎゅうっと皺を寄せた後、やがて言った。
「キスしてほし――、」
アンタ、そんな顔見せてくれるの。
強く絡んだ指先に、離れない視線に、とびきりのおねだりに……三井さんのすべてに許されれば、我慢なんてできずに最後の一文字ごとその唇を食べてしまった。
これは、ふたりきりの小さな部屋で、俺が初めて三井さんとキスした日の話。
